什翼犍の治世と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 05:10 UTC 版)
拓跋什翼犍の即位に際して、後趙の人質となっている拓跋什翼犍の返還が困難であるとの理由で群臣の反対があり、高涼王拓跋孤を推挙する動きがあったが、拓跋孤が鄴に向かい、自らが人質となることを申し出て、什翼犍の返還を迫った。すると、石虎は拓跋孤の気概に感心し、2人とも返還した。こうして338年、繁畤にて拓跋什翼犍は即位、元号を建国とした。339年、百官を設け国家体制を整える。またふたたび代国を南北に分割し、それぞれに大人を置いた。北部を弟の拓跋孤が監督し、南部を庶長子の拓跋寔君が監督した。この年、慕容部の大人慕容皝の妹を娶り后とする。 340年春、雲中郡の盛楽宮に遷都し、341年秋9月、盛楽城を故城の南八里に築城した。后の慕容氏が卒去。冬10月、匈奴鉄弗部の劉虎は西の国境を侵す。什翼犍は軍を派遣し討伐、これを大破する。劉虎が没すると、子の劉務桓が帰順してきたので、什翼犍は娘をやった。344年、慕容皝の娘を迎えて后とする。355年、太后の王氏が卒去する。360年夏6月、后の慕容氏が卒去した。 363年冬10月、高車を討ち、これを大破する。364年冬11月、没歌部を討ち、これを破る。365年春1月、鉄弗部の劉衛辰が謀反、什翼犍はこれを討ち、劉衛辰は遁走する。367年冬10月、什翼犍は劉衛辰を征伐、劉衛辰は宗族とともに西走する。370年冬11月、高車を征し、これを大破した。371年春、長孫斤が謀反を起こす。太子の拓跋寔は傷を負い、それがもとで夏5月に卒去した。374年、什翼犍は劉衛辰を征し、劉衛辰は南走する。 376年、劉衛辰の要請で、前秦の苻堅は大司馬の苻洛を遣わし20万の兵と朱肜・張蚝・鄧羌などの諸道を率いて来寇させ、南の国境を侵す。冬11月、白部・独孤部はこれを防ぐが、敗北した。南部大人の劉庫仁は雲中郡に敗走した。什翼犍は再び庫仁を遣わし、騎兵10万を率いて石子嶺で反撃させるが、敗北した。什翼犍は病にかかり、軍を率いて陽山の北に逃れた。高車雑胡が相次いで反乱する。12月、什翼犍は雲中に戻るが、拓跋孤の子拓跋斤にそそのかされた庶長子の拓跋寔君は諸弟と什翼犍を殺してしまう(『宋書』では前秦に捕らえられた)。これにより代国は、前秦の支配下に入り、河を境に東西に分割され、東を劉庫仁が、西を劉衛辰が統治し、各々苻堅から官爵を拝受した。拓跋寔君と拓跋斤は苻堅によって処刑されたという。
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