交流送信機と世界初のラジオ放送
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「レジナルド・フェッセンデン」の記事における「交流送信機と世界初のラジオ放送」の解説
回転式火花送信機の開発は、新たな手法が完成するまでのその場しのぎの手段に過ぎなかった。レジナルドは交流発電式送信機の方が優れていると考えていた。この方式では単一周波数の純粋な正弦波を生成でき効率がよく、音声信号の送信にも適していた。彼のアイデアは通常の交流発電機ではせいぜい数百ヘルツの交流電流しか生成できないが、これをキロヘルツ単位の周波数が生成できるように高速化するというものだった。つまり、交流発電機を高速化することで無線信号をそれに載せて発信するのである。カーボンマイクを送信機に組み込むことで音声信号を発電機の発生した交流に乗せ、信号の強さによって振幅を変化させる。すなわち、高周波の搬送波に音声信号を埋め込む振幅変調である。しかし交流発電式送信機のプロトタイプ開発にも時間と資金がかかり、それを高出力化するにはさらに数年を要すると思われた。 レジナルドはゼネラル・エレクトリックと契約し、高周波交流発電式送信機の設計と製作に支援を得た。1903年、GEのチャールズ・プロチュース・スタインメッツが10kHz版を完成させたが使い方が制限されており、そのままでは無線送信には使えなかった。彼はもっと高速で高出力の装置の開発をアーンスト・アレキサンダーソンに依頼し1906年8月、約50kHzの周波数の送信機が完成した。ただし、出力はレジナルドの回転式火花送信機に及ばなかった。 交流発電式送信機は十分な搬送波を送信できるレベルとなったが、(その強大な搬送波を振幅変調すべく加える、カーボンマイクの)音声信号を増幅する手段がなかった。1906年12月21日、ブラントロックで新しい交流発電式送信機の公開実験を行い2地点間の無線電話が可能であることを示した。また、無線局を有線電話網とつないで通話可能であることも示した。この公開実験の詳細なレビューはThe American Telephone Journalに掲載された。 数日後、2つの追加実験が行われた。これが世界初の娯楽と音楽を内容とするラジオ放送とされている。1904年からアメリカ海軍は時報と気象情報を放送していたが、それは火花送信機でモールス符号を使ったものだった。1906年12月24日(クリスマス・イヴ)の夜、交流発電式送信機を使ってブラントロックから短い番組を放送した。レジナルド自身が『さやかに星はきらめき(O Holy Night)』をヴァイオリンの伴奏で歌い、聖書のルカの福音書第2章の一節を朗読するというものだった。同年12月31日の大晦日、第2回の放送が行われた。これらの放送を聴いていたのは大西洋沿岸を航行する船の無線技師だけであり、人数は不明である。現在ではこれらの実験の重要性が認められているが当時はほとんど話題にならず、すぐに忘れ去られた。この実験の最初の記録はフェッセンデン自身が1932年1月29日にかつての同僚・Samuel M. Kinterにあてた手紙である。しかしどの船にもこの放送を受信したという記録はなく、当時のどの出版物にも書かれていない(放送史家・James E. O'NealはRadio Worldというウェブサイトに発表した一連の記事でレジナルドは四半世紀後にこの事実を書いており、日付を間違ったのではないかと示唆した。O'Nealは1909年に行った実験との混同を示唆している)。さらにレジナルドがその後放送実験を繰り返すことはなく、あくまでも2地点間の無線電話の実現に向けて開発を進めていった。それでも、この実験がラジオの歴史上重要であることは間違いない。なお受信範囲はせいぜい数kmとされていたが、NESCOの社員・James C. Armorはマクリハニッシュでブラントロックから送信された音声信号を受信したことがあると報告している。
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