井上なつゑ
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      井上なつゑ
       
       いのうえ なつえ
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| 生年月日 | 1898年7月25日 | 
| 出生地 |   (現・兵庫県加東市もしくは小野市)  | 
    
| 没年月日 | (1980-11-13) 1980年11月13日(82歳没) | 
| 出身校 |  ロンドン大学ベットフォード女子専門学校公衆衛生看護学科卒業 女子英学塾修了 日本赤十字社大阪支部病院救護看護婦養成所卒業  | 
    
| 前職 | 看護師 | 
| 称号 |  正五位 勲三等宝冠章  | 
    
| 選挙区 | 全国区 | 
| 当選回数 | 1回 | 
| 在任期間 | 1947年5月3日 - 1953年5月2日 | 
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井上 なつゑ(いのうえ なつえ、1898年〈明治31年〉7月25日[1][2] - 1980年〈昭和55年〉11月13日[1][3])は、日本の看護師、政治家。位階は正五位。
経歴
兵庫県[1][4]加東郡福田村で、井上音松の娘として生まれる[5]。1913年(大正2年)京都産婆学校で修業し産婆検定試験に合格[6]。1917年(大正6年)日本赤十字社大阪支部病院(現大阪赤十字病院)救護看護婦養成所(現大阪赤十字看護専門学校)を卒業[6]。1922年(大正11年)同病院看護婦長に就任[6]。1924年(大正13年)応召して樺太陸軍病院で勤務した[6]。女子英学塾(現津田塾大学)修了後[3][4]、1928年(昭和3年)イギリスに留学し[6]、1929年(昭和4年)ロンドン大学ベットフォード女子専門学校公衆衛生看護学科を卒業した[3][4]。
帰国後、日赤大阪支部病院看護婦長、日赤中央病院看護婦養成部書記、女子学習院講師、厚生省研究所講師、日赤中央病院養成部副部長兼看護婦監督、公衆衛生院講師、日赤女子専門学校主事・理事などを歴任した[3][4]。
戦後、1946年(昭和21年)11月[5]、日本産婆看護婦保健婦協会(現日本看護協会)の初代会長に就任した[1][2][3][4]。1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補して当選し、その後、緑風会に所属して参議院議員を1期務めた[3][4]。
1968年(昭和43年)11月の秋の叙勲で勲三等に叙され、宝冠章を受章する[7]。
1980年(昭和55年)11月13日、死去した。82歳没。同月18日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付をもって正五位に叙された[8]。
著作
- 『保健婦事業の実際』国光出版部、1942年。
 - 『アメリカ看護事業の一端』文光堂、1951年。
 - 『わが前に道はひらく:井上なつゑ自叙伝』日本看護協会出版会、1973年。
 
脚注
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 上』人事興信所、1948年。
 - 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
 - 『日本女性人名辞典〔普及版〕』日本図書センター、1998年。
 - 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
 - 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
 - 泉孝英『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』医学書院、2012年。
 
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| †:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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