福田村 (兵庫県)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/20 06:09 UTC 版)
ふくだむら 福田村 |
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廃止日 | 1955年3月31日 |
廃止理由 | 新設合併 社町、福田村、米田村、上福田村、鴨川村 → 社町 |
現在の自治体 | 小野市、加東市 |
廃止時点のデータ | |
国 | ![]() |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 兵庫県 |
郡 | 加東郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 | 5,197人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 小野市、加東郡社町 |
福田村役場 | |
所在地 | 兵庫県加東郡福田村 |
座標 | 北緯34度53分49秒 東経134度57分25秒 / 北緯34.89703度 東経134.95697度座標: 北緯34度53分49秒 東経134度57分25秒 / 北緯34.89703度 東経134.95697度 |
ウィキプロジェクト |
福田村(ふくだむら)は、兵庫県加東郡にあった村。現在の加東市の南西端、加古川の左岸および小野市古川町・久保木町などにあたる。
地理
- 河川:加古川、出水川
歴史
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大門村・西古瀬村・福吉村・上田村・沢部村・東古瀬村・中古瀬村・屋度村・東実村・古川村・久保木村の区域をもって発足。
- 1955年(昭和30年)3月31日 - 社町・米田村・上福田村・鴨川村と合併し、改めて社町が発足。同日福田村廃止。
- 1956年(昭和31年)4月1日 - 社町のうち旧村域の一部(大字古川・久保木)が小野市に編入。
昭和期における合併において、加東地方事務所は1953年(昭和28年)に加東郡を北・東・南の3ブロックとする合併案を構想し、北ブロック(滝野町・社町・加茂村・上福田村・福田村)が当初合併のモデル地区とされたが、滝野町と加茂村が早々に合併を決めてしまったためこの案は断念されることになった。福田村では算盤珠の生産地である久保木・古川の両部落が小野町を中心とする南ブロックへの参加を強く主張し、社町との合併を志向する北部部落との対立が激しくなっていた。1955年1月末の合併委員会でもこの問題は解決せず、2月5日の臨時村議会では12票対9票で社町への合併を可決した。福田村を含む5町村は2月23日に一斉に合併を決議、翌日に合併調印式を行ったが、久保木・古川の両部落については一応5町村合併を実現したうえで改めて分町を検討することになった。5町村は3月31日に合併したが、分町の動きは早く、小野市は5月23日に加東地方事務所に両部落の分離促進を要請、5月27日には社町との正式折衝に入った。しかし両者の話し合いは進展せず、社町は7月14日の臨時町議会で分町案を否決した。すると翌7月15日には両部落の住民代表は県庁を訪れ、町村合併審議会委員に分町の実現を訴える。事態を重く見た兵庫県は7月18日に社町を訪問、分町を柱とした調停案を作成し、社町も翌7月19日にこの調停案を受け入れた。1956年4月1日に分町は実現し、これをもって昭和期の加東郡における合併問題は終結することになる[1]。
経済
産業
- 農業
『大日本篤農家名鑑』によれば、福田村の篤農家は「蓬萊林太郎、小林英二、田中寅之助、内藤鹿之助、下山三場」などがいた[2]。農業を営む人物は「蓬萊舜一郎[3]、蓬萊宗兵衛」などがいた。
交通
道路
出身・ゆかりのある人物
- 蓬萊宗兵衛(兵庫県多額納税者、農業[4]、東播合同銀行頭取) - 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した[4]。
脚注
- ^ 『小野市史』p.789-797
- ^ 『大日本篤農家名鑑』126頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月14日閲覧。
- ^ 『早稲田大学校友会会員名簿 大正14年11月調』152頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年4月9日閲覧。
- ^ a b 『貴族院多額納税者名鑑』99頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年8月26日閲覧。
参考文献
- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 『早稲田大学校友会会員名簿 大正14年11月調』早稲田大学校友会、1915-1925年。
- 織田正誠編『貴族院多額納税者名鑑』太洋堂出版部、1926年。
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』角川書店、1988年。
関連項目
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