五摂家の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 22:01 UTC 版)
藤原北家の良房が天皇の外祖父として人臣初の摂政に任官して以後、その子孫の諸流のうち外戚の地位を得た者の間で摂政・関白の地位が継承されたが、道長・頼通父子で合わせて内覧・摂関を72年にわたり担当すると、道長の嫡流子孫である御堂流が摂関を継承することが当然視されるようになった。そのため、藤原氏を母にもたない後三条天皇が即位しても頼通の弟である教通が関白となり、閑院流を母に持つ鳥羽天皇の代にも頼通の曾孫である忠実が摂政となった。これにより、外戚関係を問わず御堂流が摂関に就くことが慣例化した一方、外戚関係と切り離された摂関の権力は弱体化してその実権の多くを院政に明け渡した。平安時代末期、藤原忠通の嫡男である基実が急死すると、その子基通がまだ幼少であったことから、弟の基房が摂関の地位を継いだために、摂関家は近衛流と松殿流に分立。 さらに、平安末期の戦乱によって基房・基通ともに失脚し、基房の弟である兼実が関白となったことで、九条流摂関家が成立した。この3流のうち、松殿流の松殿家は松殿師家が摂政になって以降、結果的には摂政・関白を出すことなく何度も断絶を繰り返して没落し、摂家には数えられなかった。その結果、摂関家として近衛・九条の両流が残り、近衛流は殿下渡領以外の摂関家領のほとんどを掌握した。九条流は天皇の外戚としての血縁関係と、自家からも将軍を輩出するほどの鎌倉幕府との良好な関係によってもたらされた摂関就任の実績によってようやく摂関家としての地位を安定化させ、反対に藤原師長(頼長流)や松殿忠房(師家の弟)も摂関就任の可能性があったにも関わらず就任することが出来ず摂関家としての地位を確立できなかったことなど、流動的な状況が長く続いた。 のち、近衛流摂関家からは摂家嫡流であった近衛家実の子、兼平により鷹司家が成立。さらに九条流摂関家からは、九条道家の子実経および良実により、それぞれ一条家および二条家が成立した。建長4年(1252年)に鷹司兼平が摂政・太政大臣、藤氏長者宣下を賜ったことにより、それ以前に摂政または関白就任、藤氏長者を宣下を受けていた近衛兼経、九条教実、二条良実、一条実経とともに後に「五摂家」と呼ばれる家格が設立された。これ以降、五摂家当主が、基本的に順々に摂政または関白、藤氏長者を歴任することとなり、清華家以下の公家とは隔絶された地位を築き上げることになる。また公家にはそれぞれに極めるべき家道(陰陽道や書道、華道、香道、和歌、雅楽楽器、蹴鞠など)の家元となる習慣が確立することとなるが、五摂家に至っては「政」こそが家道であるため、家元となる家道を有していない。なお、時代が下るが江戸時代初期、九条幸家が正室に豊臣秀勝と江(崇源院)との間に出来た完子を迎えたことから、徳川将軍と血縁関係にあった幸家の次男九条道基が松殿家を再興した。この道基は血縁上は3代将軍・徳川家光の甥であることから、松殿家を摂家として遇して「六摂家」にすることも検討されたが、寛永18年(1641年)に道基を一代限りの摂家待遇とされることになった。もっとも、道基は男子がいないまま没して松殿家は再び断絶したため、仮に道基の子孫がいた場合に実際にどのような待遇を受けることになったのかは不明である。 道家失脚後は摂家から国母が出なくなり、両統迭立期には治天の君たる上皇が欠けても天皇が治天の形式で親裁するようになり、摂関の実質的職権は太政官の一官職とあまり変わらなくなった。一方で、院政初期に治天に国政の人事権を奪われた後の摂家は荘園を集積するようになり、権門の一角としての地位を維持し続けた。 藤原忠通(御堂流) 近衛基実(近衛家) 松殿基房(松殿家) 九条兼実(九条家) 基通 師家 良経 家実 道家 兼経 鷹司兼平(鷹司家) 教実 二条良実(二条家) 一条実経(一条家)
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