五大電力の角逐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 02:40 UTC 版)
「東京電力 (1925-1928)」の記事における「五大電力の角逐」の解説
大正後期、東京電灯が関東を中心に巨大化したのに並行して、中京地方と九州北部では東邦電力、関西地方では宇治川電気が勢力を拡大。さらに電力の卸売りを主体とする新興の大同電力と日本電力とあわせ、電力業界では「五大電力」と呼ばれる大手5社の勢力が著しく伸長した。 1923年5月、京浜電力が梓川筋(長野県)の発電所と横浜変電所を繋ぐ200キロメートル超の長距離送電線を完成させた。同線は送電電圧に戦前日本の最高電圧である154キロボルト (kV) を初めて採用した送電線である。以後宇治川電気以外の五大電力各社により154kV送電線が相次いで新設され、日本アルプスを水源とする諸河川の水力発電所から京浜・中京・京阪の三大工業地帯に対して大量の電力が長距離送電されるようになる。こうした大規模設備は第一次世界大戦下の大戦景気を背景とした電力不足の時代に立案され、1920年代半ばに続々と竣工する。一定期限内の完成を義務付けられていたことからこの時期に完成が相次ぐものの、完成時には好景気は過ぎ去っており、発電力の増加に対し需要増加の速度は遅く、その差が余剰電力として堆積していった。 余剰電力を抱えた電力会社各社は、その消化に努めて時には同業他社の地盤への進出も狙った。こうして生じた電力会社間の紛争を「電力戦」という。この時期の紛争は、当時の逓信省が電灯供給および小口の電力供給については既存事業者の地域独占供給を認める一方で、大口の電力供給については独占の弊害を除去するためとして新規事業者の参入を許可したことから、大口電力需要家の争奪戦という形で展開された。五大電力間の紛争で最初のものは中京地方における東邦電力・日本電力の紛争である。1923年8月に日本電力が東邦電力の地盤である愛知県名古屋市とのその周辺を電力供給区域へ編入する許可を得たことが発端となり、一部で大口需要家の争奪戦を生じた。しかし本格化を前に、東京進出を控える東邦電力側が妥協し1924年(大正13年)3月日本電力との間に最大10万キロワット (kW) を受電するという大規模受電契約を締結したことで対立は解消された。 一方京阪地方では、1922年に大同電力が大阪府下の大阪市・堺市などに電力供給区域を獲得した。両市を中心に一部区域が宇治川電気の既存電力供給区域と重複することから、宇治川電気では大同電力の大阪進出を深刻な脅威ととらえ、大同電力の供給を制限するのと引き換えに同社から最大15万kWを受電するという大規模受電契約を締結した。こうして大同電力の脅威を抑えた宇治川電気であったが、大同電力との契約締結以前から受電契約があった姉妹会社日本電力との関係が悪化する。日本電力の電力供給区域も宇治川電気と重複することから、対立の末に1926年(大正15年)9月末限りで受電契約が失効したのを機に激しい電力需要家争奪戦が始まった。 「電力戦」は、東京電灯の地盤であり、日本国内における電力需要の3割を占める巨大市場である関東地方にも及んだ。1925年(大正14年)5月、関西への送電を目的に起業された大同電力・日本電力の両社はともに東京送電線の建設を認可された。うち大同電力は同時に東京市内および神奈川県橘樹郡を電力供給区域として抑えており、これを脅威とみた東京電灯では受電契約を従来の2倍近い5万kWに増加することで大同電力の東京進出を抑制した。だが翌1926年5月、東邦電力が以下で詳述する新会社「東京電力」を擁して東京進出を図ったことで、東京電灯を相手とする「電力戦」が再び始まったのである。
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