二人の宋江
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核となるストーリーの中でも「山賊であった宋江が朝廷に帰順し、方臘征伐に活躍する」という部分は、とりわけ重要であり、長年のあいだ史実と信じられていた。しかし1939年陝西省府谷県において、北宋末の范圭なる人物が撰した「宋故武功大夫河東第二将折公墓誌銘」という史料が発見されたことで、異説が現れた。これは北宋末に方臘征伐に参戦した折可存という武人を称えた墓誌であるが、宣和3年(1121年)4月26日に方臘を捕らえた後、都へ凱旋の途中に草寇の宋江を追捕したと記されていたからである。これを文字通り読めば、方臘征伐時点ではまだ宋江は朝廷に投降していなかったことになる。 牟潤孫はこれに対し、宋江は方臘征伐で功を立てたことがかえって仇となり、嫉妬から謀叛の疑いをかけられて征伐されたとの説を唱えたが、論理に飛躍があり、決定打とはならなかった。また厳敦易は、そもそも宋江が張叔夜に投降したという史料は、そうした命令が出たというだけで、実際に投降したとは限らないとし、宋江はこの時点で官軍に身を投じた訳ではなかったとの説を唱えた。 宮崎市定は『東都事略』(南宋の王偁による史書)の宣和3年5月3日の記事に「宋江、擒に就く(捕らえられる)」とあること、『皇宋十朝綱要』(南宋の李埴著)、『続資治通鑑長編紀事本末』(楊仲良著)などに方臘征伐軍の将軍宋江が4月24日の包囲戦で方臘の退路を断ち、方臘捕縛後の6月5日にも残党を滅ぼして反乱を平定するなどの活躍が記されていることなどから、「山賊の宋江と方臘征伐に従軍していた将軍宋江は、同姓同名の別人である」との新説を展開した。 宋江・方臘関連年表宣和元年(1119年) 12月 宋江を招撫せよとの詔が出る(『皇宋十朝綱要』)。 宣和2年(1120年) 10月 江南で方臘の乱が勃発(『宋史』「徽宗紀」)。 12月 7日 京東賊宋江が山東に出没したため、曾孝蘊を青州に転任させる(方勺『泊宅編』)。 21日童貫が方臘征伐に赴く(『宋史』)。 29日童貫が方臘征伐に赴く(『泊宅編』)。 宋江が海州で張叔夜に投降する(『続資治通鑑長編紀事本末』)。 ?月 童貫が宋江等を率いて方臘征伐に赴く(『三朝北盟会編』巻52『中興姓氏奸邪録』)。 宣和3年(1121年) 1月 7日 童貫が方臘征伐に赴く(『皇宋十朝綱要』)。 2月 15日 宋江が海州で張叔夜に投降する(『皇宋十朝綱要』)。 宋江が海州で張叔夜に投降する(『宋史』)。 4月 24日 宋江が方臘のこもる幇源洞の背後をつく(『続資治通鑑長編紀事本末』)。 26日 方臘が捕らえられる(『宋史』)。 宋江が方臘の残党を捕らえる(『三朝北盟会編』巻212『林泉野記』)。 5月 3日 宋江が海州で張叔夜に投降する(『東都事略』)。 3日 張叔夜が盗賊を捕らえた功で職一等を進められる(『宋会要輯稿』第177冊)。 6月 9日 宋江が方臘の残党を上苑洞で破る(『皇宋十朝綱要』)。 宣和4年(1122年) 3月 折可存らが方臘の残党呂師嚢を破る(『泊宅編』)。 ?月 折可存が草寇の宋江を捕らえる(「折可存墓誌銘」)。 年表は高島俊男『宋江實録』より。同様の事件でも、史料により時期が異なるため重複して記載。 それに対し高島俊男は、宮崎説をはじめ従来の説を徹底的に批判した。まず各書によって事件の日付に混乱が見られるのは、一人の人物(たとえば宋江)にまつわる複数の事柄をまとめて記載する際に、代表的な事件が起きた日付の箇所にまとめて記載することが多いという史書の慣例のためとし、必ずしもそれらの事件すべてが記載日時に起きた訳ではないと指摘。高島によれば、各史書で官軍の宋江の活躍を記した箇所は後からの補筆の形跡が疑われ、『大宋宣和遺事』(後述)などで広く宋江関連説話が広まって以降に改竄された可能性が高く、事実として「山賊の宋江が官軍に降り、方臘征伐に活躍した」ということはなかったと結論している。また、折可存が方臘征伐の帰路に捕らえたという草寇(こそ泥)の宋江は、山東・淮南広域を荒らしていた宋江の名にあやかって名乗った規模の小さい草賊であったとする。 いずれにしろ、盗賊宋江が朝廷の方臘征伐軍に加わって功績を挙げたという事件は史実としては認めがたく、『水滸伝』物語の核ははじめから虚構の上に成り立っているといえよう。
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