二人の弟への影響とその議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 05:49 UTC 版)
「アレクサンドル・ウリヤノフ」の記事における「二人の弟への影響とその議論」の解説
長弟ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(後に偽名としてウラジーミル・レーニンと名乗る)は長兄アレクサンドルの受難に対する見解をほとんど史料に残していない。のちレーニンはカザン大学でも勢いを得ていた学生運動に参加して1887年12月に暴動行為により警察に拘束され、大学から退学処分を受けた。後にモスクワ大学医学部へ進んだ三弟(末弟)ドミトリー・イリイチ・ウリヤノフも運動に加わり、1897年に最初の逮捕を受けている。そのため、ウリヤノフ兄弟は帝国政府から「テロリストの兄弟」として危険視され、常に秘密警察から監視される日々を送ることになった。長兄アレクサンドルの運動と死が、結果的に同じ革命家の道を歩んだ長弟レーニンと三弟(末弟)ドミトリーにどのような影響を与えたかについては、歴史家の間でも議論となっている。一説に、レーニンは長兄アレクサンドルの死に悲しみながらも「私なら別の方法を選んだ」と冷静に答えたとする逸話が残っている。しかしこれはいささか出来過ぎたエピソードであり、レフ・トロツキーは「逸話以上のものではないだろう」と述べている。 またそもそも長弟レーニンは長兄の死の際には17歳の少年であり、三弟(末弟)ドミトリーに至っては13歳であった。彼らが兄の思想を理解できる年齢や状況であったかは疑わしい。
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