二人の息子のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/13 15:05 UTC 版)
「シュリーランガパトナ条約」の記事における「二人の息子のその後」の解説
コーンウォリスは引き渡しのとき、2人の少年が首に大きな真珠の首飾りをまき、ターバンにも真珠で模様がつけられていたこと、立派なブリリアント型の宝石で縁取られたルビーとエメラルドの装飾品を懸けていたことを記録している。 その後、ティプー・スルターンの息子2人はコーンウォリスとともにマドラスへ向かった。コーンウォリスは部下に対して少年らに丁寧な態度で接するように命じ、自身もまた気遣って対応した。また、彼の手紙には「2人の少年はマナーもよく、一緒にいると実に楽しい」と書いている。 同年10月 、コーンウォリスが本国へと出航する際、二人の少年は釈放を命じた。しかし、保釈金の支払い問題から釈放が送れ、1794年3月29日に2人の少年は首都シュリーランガパトナへと帰還した。
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