二人の年表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「二人の年表」の解説
チンギス・ハン和暦年/西暦年源義経(以下のはっきりした年号は不明) 平治元年(1159年) 義経の生年。京都で源義朝の9男として生まれたとされる。平治の乱が起き、父義朝敗れる。幼名は牛若丸。幼名、出自は伝説。 モンゴル中央高原でチンギス・ハン誕生する。右手に“血”の塊を握っていたと伝承。父はイェスゲイ。幼名はテムジン。 1162年?1167年?詳しくは不明 嘉応元年(1169年) 義経は鞍馬寺に預けられる。遮那王に名前を変える。(10) 承安4年(1174年) 義経は奥州にいく。(15) テムジン、コンギラト族のデイ・セチェンの娘ボルテと結婚するが、メルキト部族にボルテを奪われる。以後約9~10年間行方不明 1178年(治承2年頃) 治承4年(1180年) 義経、黄瀬川の宿で頼朝と対面する。(22)ここから史学上はっきりしている義経の足跡。これ以前は判っていない。 治承5年(1181年) 大工の馬事件鶴岡八幡宮若宮の棟上式において、工匠たちに与える馬を引かせられた。たとえ兄弟であっても、義経は頼朝の御家人の一人にすぎないということを認識させた事件(23)以後3年間行方不明 寿永3年(1184年) 宇治川の戦い1月20日兄範頼とともに宇治川の合戦に勝利し、義仲を近江粟津に敗死させる。壇ノ浦の合戦。(26) 寿永5年(1185年) 義経京に凱旋するも、頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを許されず、都落ちし、大物浦より西国へ向かうが、暴風雨により失敗(11月6日)。その後消息不明。(27) テムジン、メルキト部族をプウラ・ケエルで破りボルテを奪還する。 1187年(文治3年頃) テムジン、第一回目の即位「ハン」を宣言(年号は不確かで実際はこの前後か)蒙古源流では、雞の年(己酉なら1189年、一回りあとの辛酉なら1201年)にテムジンが新たにGür Qanとなったジャムカと一大決戦を行なって雌雄を決したとする 1189年頃(文治5年頃) 奥州衣川で義経自害。(31) チンギス・親友ジャムカとの戦いに敗れる。(十三翼の戦い) 1190年頃(文治6年頃)
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