二人の姉と祖母の死
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「出家とその弟子」の記事における「二人の姉と祖母の死」の解説
1916年(大正5年)5月11日、一燈園での生活を続けていた百三のもとに、四姉の産後の肥立ちが悪く回復は見込めないだろうとの知らせが入った。今日明日という状態ではないということであったので、百三は四姉の看護のためにはるを実家に行かせた。この時すでにはるは百三の子を妊娠していたが、百三の両親ははるを百三の妻として認めず、はるは女中と寝食をともにすることを強いられた。6月21日になって父から「至急帰れ」の電報を受け取り、百三は艶子とともに急ぎ帰郷した。途中立ち寄った尾道の三姉の家で、百三は、三姉も重病で先が長くない状態にあることを知らされた。7月15日、死期を悟った四姉は親族を枕元に集め、別れの言葉と父母への感謝を口にした後、皆に念仏するよう頼み、一同の念仏の声に包まれて静かに息を引き取った。父は泣きながら「お前は見上げたものだ。このような美しい臨終はない。」と言い、立ち会っていた医者も「このように美しい臨終に立ち会ったことはない」と感嘆した。百三も四姉の死に深く感銘を受けた。その後、尾道の三姉も同月の内に亡くなった。 四姉が亡くなると、家業の跡取りとして婿に迎えていた四姉の夫と生まれたばかりの幼子の扱いが問題となった。親族は、艶子が四姉の夫の後妻に入って家業を継ぐことを望んだが、艶子は拒否。話し合いの結果、四姉の夫は実家に帰り、四姉の娘は百三の養女とすることになった。また、この時に百三は、実家がかなりの負債を抱えていることを初めて知った。この話し合いがまとまって間もなく、百三の祖母も息を引き取った。 二人の姉と祖母の相次ぐ死を経験した百三は、人間の無力さを痛感する。この頃に『歌はぬ人』を書き、次いで「心の内に寺を建てる」思いで『出家とその弟子』の構想を練り、執筆にとりかかった。11月から、健康のすぐれない百三は、医者のすすめにしたがって、はると温暖な仁保島村丹那で療養した。百三はここで『出家とその弟子』を書き上げた。題名は、同年に『白樺』に掲載された長與善郎の「画家とその弟子」にヒントを得たと考えられている。執筆に要した日数は、合わせて40日ほどだったという。百三は、千家元麿や犬養健らによって同年10月に創刊された同人誌『生命の川』の同人となり、『出家とその弟子』は、同年11月から翌年4月にかけて第四幕第一場までが掲載された。送られてきた原稿を見た同人らは、「これはいい人が出てきた」と喜んだという。 そのころ、百三の一高時代の同級生は、久保正夫が1916年(大正5年)1月に『聖フランシスの小さき花』を出版、久保謙も雑誌で作品を発表しており、芥川龍之介なども文壇に登場しつつあった。百三の『出家とその弟子』も一部では好意的に受け入れられていたが、『生命の川』は創刊されたばかりでいつ廃刊になるやもしれない無名の同人誌に過ぎなかった。また、同人誌である『生命の川』への掲載に求められる1ページあたり50銭の支出は病気療養中で実家の援助で生活していた百三には軽くない負担であり、実家の家計状況を知ってしまった百三は自分が早く経済的に自立しなければとも感じていた。さらに、1917年(大正6年)3月には、はるが男児を生み、百三は父親となっていた。百三は、文筆業で生きていくために『出家とその弟子』を出版して広く世に問いたいという思いを募らせていった。三次中学や一高時代の先輩や友人を通じて岩波茂雄に話を持ち込み、『出家とその弟子』は、6幕13場に新たに「序曲」を加えた形で1917年(大正6年)6月に岩波書店から自費出版として刊行された。初版800部の出版に必要な500円は、これが最後と父に頼み込んで用立てた。
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