上方演芸界への功罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:47 UTC 版)
「吉本興業ホールディングス」の記事における「上方演芸界への功罪」の解説
長く上方演芸界の中心を担ってきており、多くの上方芸人を育てたこと、関西一円に寄席・劇場・映画館を多数持ち、集客効果を発揮して、周囲の繁華街の発展に寄与したことは、その功績として誰しもが認めるところである。さらには戦前、安来節を流行らせ、前述の初代桂春団治をめぐる放送番組の件や、京都の松竹と競合すると見るや新興資本の東宝と組んで漫才=演芸と映画を融合させるなど、今日のマスメディアとショービジネスの関連性をいち早く見抜き、メディアミックスの手法を取り入れて大いに活用し躍進した。一時は大阪・新世界の通天閣も購入し、隆盛を誇っていた。 とりわけ戦前の吉本の功績としては、漫才の近代化に積極的に取り組んだことが挙げられる。かつて漫才は「万歳」という表記であり、楽器を持った「音曲万歳」が主流であったが、昭和初期以降、吉本所属の横山エンタツ・花菱アチャコ(1930年・1925年にそれぞれ入社、1930年コンビ結成)をはじめとする演者、秋田實(1934年入社)らの漫才作家により、純粋に話芸のみで勝負するしゃべくり漫才を育て、これを漫才の主流とした。またそれまでの「万歳」の表記を、現代風に「漫才」と変えさせたのも吉本である。こうしたしゃべくり漫才化の動きはやがて東京の漫才界にも及び、現在に至っている。また戦後の吉本の功績としては、伝統的な大阪仁輪加の流れを受け継ぐ「松竹新喜劇」とは別に、東京・浅草のアチャラカ喜劇の流れを受け継ぐ「吉本新喜劇」(当初は吉本ヴァラエティ)を結成し、大阪に軽演劇というジャンルを根付かせたこともある(吉本新喜劇初期の出演者には、守住清、清水金一、木戸新太郎、財津一郎など浅草の軽演劇出身者も多く見られる)。その後、本場・浅草では軽演劇というジャンルがほぼ絶滅したのに対し、それが移植された大阪では形を変えながらも今日まで続いている。 一方、吉本に対する評価が分かれるのは、上方落語に対する功罪である。とりわけ上方落語界のスターだった初代春団治が1934年に死去したあと、上方落語は一時絶滅寸前にまで衰退したが、その原因は戦前の吉本の漫才重視政策にあるとする関係者もいる。すなわち、前述のように戦前の吉本は「過度に」漫才に力を入れ、落語を軽視したために、それが上方落語の衰退を招いたと見るのである。実際漫才の興隆の前に、寄席の出番も減り、落語家からは廃業する者や自ら漫才師に転身する者が当時出てきたことは事実である。しかし戦前、吉本の幹部社員として漫才重視政策を推進し、戦後は吉本の社長も務めた橋本鐵彦は、演芸評論家・香川登志緒による聞き書きの中で、客を呼べる落語家が減っていったのが真の原因として、吉本が上方落語を衰退させたという説を全面的に否定している。また東京の演芸評論家である矢野誠一も、当時の吉本の漫才重視政策が、上方落語の衰退を加速させたことは事実としながらも、当時の上方落語自体にも衰退する理由があり、吉本が上方落語を潰したとまでは言えないと結論づけている。
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