上方劇壇の雄として
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「實川延若 (初代)」の記事における「上方劇壇の雄として」の解説
帰坂後、実家と復縁し延三郎門下にも復帰。文久3年(1863年)師匠の俳名である「延若」を頂戴して初代實川延若を襲名する。しかしその一方で實川一門の屋号「井筒屋」からは抜け、あらたに実家の屋号にちなんだ「河内屋」を興す。以後和事芸の研鑽に努めた。 その後、大坂京都を中心に座頭として活躍。その舞台活動は精力的で、出世芸となった『彩入御伽艸』(小幡小平次)の水中早替わりでは、寒中にもかかわらず毎日長時間水につかり、体調を崩しても最後までつとめきった。元来の気の強さでしばしば中村宗十郎と争ったこともあったが、晩年は温厚な人柄となり、宗十郎ともすっかり和解して、大阪の歌舞伎界を支えた。私生活でも冗談を飛ばして周囲を笑わせたり、遅く授かった子の庄一(のちの二代目延若)が生まれたときは「エライコッチャ」と喜んで踊り出し、その後も溺愛する子煩悩な一面も見せていた。丁髷を最後まで切らない保守的な一面もあった。 実子の庄一には「芝居なんか見んでええ」と歌舞伎役者にする気は毛頭なかったが、その一方で若き初代中村鴈治郎には早くからその才能を見抜いて眼をかけ、数え十五の鴈治郎を上町の自宅に引き取って門人に加えた。そこで我が子同様に扱う傍ら、後見をさせて身近で一から芝居を仕込み、将来の後継者として育てた。明治11年(1878年)3月、地方回りで修業していた鴈治郎が数年ぶりに大阪に戻ったとき、延若は紅白二単反の羽二重に「義と恩を 守り初めてや 二日灸」の句を据えて愛弟子の門出を祝った。そして舞台を共にした『西南夢物語』のなかで「親に離れて長い間、ずいぶん苦労してきたなあ」と入れ事の科白を廻してその努力を讃えた。 晩年は鉛毒で体調を崩し、明治18年(1885年)正月大阪戎座『島鵆浪此花』の徳川家慶が最後の舞台となった。五十五歳という若さであった。葬儀の時、長老の二代目尾上多見蔵は、遺骸にとりついて「五十五で死んでもたら、八十八のわし(多蔵蔵の年齢)はどないしたらええねん。」と号泣したという。 墓所は中央区円妙寺。戒名は天遊院延若日輝居士。
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