上方劇壇の雄としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 上方劇壇の雄としての意味・解説 

上方劇壇の雄として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 09:22 UTC 版)

實川延若 (初代)」の記事における「上方劇壇の雄として」の解説

帰坂後、実家復縁し三郎門下にも復帰文久3年1863年師匠俳名である「延若」を頂戴して初代實川延若襲名する。しかしその一方で實川一門屋号井筒屋」からは抜けあらたに実家屋号にちなんだ「河内屋」を興す以後和事芸の研鑽努めたその後大坂京都中心に座頭として活躍。その舞台活動精力的で、出世となった彩入御伽艸』(小幡小平次)の水中早替わりでは、寒中にもかかわらず毎日長時間につかり、体調崩して最後までつとめきった。元来の気の強さでしばしば中村宗十郎争ったこともあったが、晩年温厚な人柄となり、宗十郎ともすっかり和解して大阪歌舞伎界を支えた私生活でも冗談飛ばして周囲笑わせたり遅く授かった子の庄一(のちの二代目延若)が生まれたときは「エライコッチャ」と喜んで踊り出しその後溺愛する子煩悩一面見せていた。丁髷最後まで切らない保守的な一面もあった。 実子の庄一には「芝居なんか見んでええ」と歌舞伎役者にする気は毛頭なかったが、その一方で若き初代中村鴈治郎には早くからその才能見抜いて眼をかけ、数え十五治郎を上町自宅引き取って門人加えた。そこで我が子同様に扱う傍ら後見をさせて身近で一から芝居仕込み将来後継者として育てた明治11年1878年3月地方回り修業していた治郎が数年ぶりに大阪戻ったとき、延若は紅白二単反の羽二重に「義と恩を 守り初めてや 二日灸」の句を据えて愛弟子門出祝った。そして舞台を共にした『西南夢物語』のなかで「親に離れて長い間、ずいぶん苦労してきたなあ」と入れ事科白廻してその努力を讃えた。 晩年鉛毒体調崩し明治18年1885年正月大阪戎座『島鵆浪此花』の徳川家慶最後の舞台となった五十五歳という若さであった葬儀の時、長老二代目尾上多見蔵は、遺骸とりついて五十五で死んでもたら、八十八のわし(多年齢)はどないしたらええねん。」と号泣したという。 墓所中央区円妙寺戒名天遊院延若日居士

※この「上方劇壇の雄として」の解説は、「實川延若 (初代)」の解説の一部です。
「上方劇壇の雄として」を含む「實川延若 (初代)」の記事については、「實川延若 (初代)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「上方劇壇の雄として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「上方劇壇の雄として」の関連用語

上方劇壇の雄としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上方劇壇の雄としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの實川延若 (初代) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS