上方・大阪落語の身分制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:40 UTC 版)
真打制度は戦前には上方にも存在した。しかし、戦中から終戦直後の時期において大阪では落語より漫才が好まれたこともあり、事実上、上方落語が崩壊していた時期に消滅した。その真打制度は上方落語協会で1977年(昭和52年)2月に一時復活して公表もされた。 2012年現在は制度として事実上消滅している。内部の落語家ランク(例えば協会費のランク)も他の基準(年功序列)で決定している。また大阪では、香盤は内部で存在している(かつて真打のみ一回だけ公表もされた)ものの、現在では外部には一切非公開となっている。 当時の会長6代目笑福亭松鶴は「真打にふさわしいかどうかはお客様が決めること(であり、真打制度に胡坐をかいて落語家サイドが真打を客に押し売りするのはおかしい)」と言っている[要出典]。その後、定席天満天神繁昌亭開設時に、真打制度復活が論議されたが見送られている。上方落語ならではの自由な気風を損ねるというのが、真打制度非導入の理由であった。このこともあり、主に上方落語四天王(6代目笑福亭松鶴・3代目桂米朝・5代目桂文枝・3代目桂春団治)の弟子には、寄席やテレビなどで早くに知名度をあげ、入門から7~10年程度で弟子を採る者も多くいた。なお、上方落語では修業は年季奉公のシステムであり、年季明けとともに独り立ちとなる。 また、修業中に師匠が死去しても、別の師匠の元に移籍するというようなことがない。代表的な例には6代目松鶴の最後の弟子、笑福亭鶴二がおり、入門から1年も経たずに師匠松鶴が死去し、兄弟子にあたる7代目松鶴(笑福亭松葉)らの指導を仰いだが、現在でも「松鶴の弟子」として活動している。ただし全員がその限りではなく、東京のように元の師匠の兄弟弟子などに移籍する場合も稀にある。後者の例では、5代目林家小染などがいる。 真打・香盤問題は、上方落語協会では東京よりもナイーブな理由(ほとんど口喧嘩)で大物が脱退したことすらある[要出典]。 香盤制度・真打制度は完全な実力主義でもないので、『急激に売れた人』『若い時から売れっ子になった人』に対する処遇が難しいというのも理由の一つである。真打昇進と真打昇進披露興行はリンクさせるが、上方落語協会(繁昌亭)は(香盤と関係なく)「賞」を落語家に受賞させそれと興行をリンクしている。東京の協会では幹部を話し合いで選ぶが、上方落語協会では協会員による直接選挙(正式には協会員の互選により会長候補者を選出する選挙)で選ぶ。 東京の流れを汲む中でも、名古屋の登龍亭(旧・名古屋雷門)一門のように、「仮に真打を名乗ったとしても一門外の落語家や客が認めてくれるかどうかわからない」という理由から真打制度を棚上げする意向を示している一門もある。
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