三・一運動と大韓民国臨時政府
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「朝鮮独立運動」の記事における「三・一運動と大韓民国臨時政府」の解説
「三・一運動」および「大韓民国臨時政府」を参照 第一次世界大戦末期の1918年1月に、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が「十四か条の平和原則」を発表したことを機に、朝鮮人の間で民族自決の意識が高まり、大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせた大規模な運動が計画された。 1919年3月1日正午、京城府のタプコル公園から独立宣言書の朗読で独立を宣言した学生と青年達が、数万人の群衆と共に「大韓独立万歳」を叫びながらデモ行進を行ったことを発端として、三・一運動は始まった。運動は総督府の警察と軍隊の投入による治安維持が展開される中でも、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が行われ続けた。3月~5月にかけてデモに参加した人数は205万人、デモの発生回数は1,542回とされている。しかし、総督府が憲兵や巡査、軍隊を増強したことによる武力弾圧によって、運動は次第に終息していくこととなった。 三・一運動を契機に、独立運動家達は独立運動には求心点が必要だと感じたことから、各地域で創設された亡命政府を統合することの必要性が主張されるようになった。そのことから、当時の世界における外交の角逐場で、各国の外交官にアプローチが取れ、日本の警察権が及ばないという利点があった中国・上海のフランス租界で、1919年4月に「韓民族の光復意志の結束」を掲げた「大韓民国臨時政府」が発足し、同じ時期に発足したウラジオストクの大韓国民議会や半島の漢城政府も統合していった。 臨時政府は当初大統領制を標榜し、初代大統領は李承晩だった。李承晩は外交論者で、外交戦略によって独立を勝ち取ろうとした。臨時政府は、1919年のパリ講和会議や1922年のワシントン会議に代表を派遣して独立を訴えたが、日本と同様に植民地を保持している列強諸国の反応は非常に冷淡なもので、全く成果を収めることが出来なかった。外交活動では所得を得ることが出来ず、特に外交論者の李承晩が、このような危機の中で請願した委任統治請願書が臨時政府に知られると、臨時政府の独立運動家達は新しい道を模索する為に、国民代表会議を開催した。しかし、この会議では実力養成を主張する改造派と、武装闘争を主張する創造派が対立することとなり、結局双方の歩み寄りが見られることのないまま、大部分の独立運動家達が臨時政府を離れるようになった。これ以降、抗日運動で民族の代表機関だった臨時政府は一弱小団体に転落し、金九の活動により復権するまで、長期間を要することとなった。(復権後の活動については後述。)
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