一須賀古墳群とは? わかりやすく解説

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一須賀古墳群

名称: 一須賀古墳群
ふりがな いちすかこふんぐん
種別 史跡
種別2:
都道府県 大阪府
市区町村 南河内郡太子町河南町
管理団体
指定年月日 1994.10.07(平成6.10.07)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 大阪府東南部南河内郡太子町から河南町にかけての丘陵上には、六世紀から七世紀初めにかけての時期営まれ大規模な一須賀古墳群がある。二七〇基にのぼる古墳大半小規模な円墳で、ほかに小数方墳があり、金剛山地西麓複雑な形に派生するいくつも尾根の上に、それぞれ数基から数十基ほどにまとまって造営されている。この丘陵の北は[[磯長谷]しながだに]とよばれる地域にあたる。そこには、大和通じ古代幹線道路である竹之内街道走り敏達天皇陵用明天皇陵聖徳太子墓推古天皇陵孝徳天皇陵など、天皇一族の墓と伝える六・七世紀古墳集中している。
 一須賀古墳群では、これまでに八〇基あまりの古墳発掘調査している。円墳は、ほとんど径一五メートルから二〇メートル前後小規模なもので、三〇メートルをこえる古墳はまれである。木棺直葬主体部をもつ数基以外は横穴式石室埋葬主体部としている。石室内には石棺あるいは木棺を二ないし四基置くことが多く追葬形跡が明らかである。副葬品では、竃と甑のミニチュア炊飯具を副葬する例が目立つ。それぞれの古墳から出土した須恵器からみると、古墳築造は六世紀前半開始され、六世紀後半から末葉にもっとも盛んとなり、七世紀初頭から前半には終焉をむかえ、追葬このころには行われなくなる。
 昭和四十二年から四十三年にかけて調査され一号墳は、すでに消滅しているが、古墳群西端にある方墳で、西に広がる平野部もっとも近い丘陵上に単独立地している。墳丘規模は、辺長が約三〇メートル横穴式石室の奥に置かれ家形石棺には、盗掘受けていたが、青、黄色ガラス玉付いた金銅製の沓と金環が残存していた。また石棺周辺からは金銅装単環頭大刀把頭が出土したほか、六世紀中頃須恵器群やミニチュア炊飯具もある。
 このように一須賀古墳群では、祭祀としてのミニチュア炊飯具の副葬例が多く、この古墳群造営渡来系氏族かかわっていたと推定される磯長谷から一須賀古墳群のある石川東岸一帯は近飛鳥ともよばれ、六世紀のころに百済系の渡来人集団定着した地とされている。また、同じころ、大和政権新たな勢力として台頭してきた蘇我氏とこの地域との密接な関係もよく知られているところである。
 以上のように、一須賀古墳群は、古墳時代後期における大和政権下の社会状況考究するうえで高い学術的価値有している。よって、史跡指定し、その保存図ろうとするものである
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一須賀古墳群

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/25 18:02 UTC 版)

一須賀古墳群

E-1号墳の横穴式石室
所在地 大阪府南河内郡河南町一須賀・東山、太子町葉室
位置 北緯34度30分8.5秒 東経135度38分46.0秒 / 北緯34.502361度 東経135.646111度 / 34.502361; 135.646111
形状 群集墳
規模 23支群・総数262基
築造時期 6世紀前半から7世紀中頃
史跡 1994年(平成6年)10月7日国指定
地図
一須賀
古墳群
大阪府内の位置
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一須賀古墳群(いちすかこふんぐん)は、大阪府南河内郡河南町一須賀・東山、太子町葉室にある古墳群。国の史跡に指定されている[1]

概要

6世紀前半から7世紀中頃にかけて築かれた、23支群・総数262基からなる群集墳である。高安古墳群平尾山古墳群とともに、大阪府における三大群集墳と呼ばれる。

墳形は、ほとんどが直径10メートルから20メートルの円墳であるが、方墳も一部見られる。埋葬施設は大半が横穴式石室であり、一部に木棺直葬、石棺式石室なども見られる。最大規模のWA1号墳(直径30メートルの円墳、現存しない)には、横穴式石室に組合せ式家型石棺が1体埋葬され、副葬品として須恵器土師器、ミニチュア竈、純金製耳環、ガラス玉(青色34、黄色70)、金銅製冠片、金銅製履片、金銅装単龍環頭大刀柄頭片、馬具、環状金具、鉄刀鉄刀子などが見つかっている。

かなりの古墳において、ミニチュア炊飯具型土器(調査された48基中14基)や韓式系土器が副葬されており、また、朝鮮半島の影響を受けたと見られる玄室の床面が羨道部の床面より低い構造をもつ横穴式古墳があることから、渡来系氏族、特に百済・漢人系氏族との関連が指摘されている。

経過

  • 1966年(昭和41年)に上野勝巳が分布調査を行い、その結果を『古代学研究』46号に発表した。
  • 昭和40年代(1965年~1974年)初めからの開発会社(大和団地)による宅地造成工事により、西側の約30基は消滅した。
  • 大阪府教育委員会や河南町教育委員会は、宅地開発の事前調査や古墳の整備などで約70基の調査を実施した。
  • 古墳群の重要性を認識した大阪府は、古墳の最も密集している区域29ヘクタールを開発会社より買収して、保存を図った。
  • その後、大阪府は古墳102基のうち、32基を見学できるように整備するとともに、見学のための園路を設け、1986年(昭和61年)に大阪府立近つ飛鳥風土記の丘として一般に公開した。
  • 1994年(平成6年)10月7日に、国の史跡に指定された。
  • 発掘調査による出土品の一部は、隣接する大阪府立近つ飛鳥博物館において展示されている。

ギャラリー

D-4号墳

D-12号墳

その他

脚注

  1. ^ 文化庁. “一須賀古墳群”. 文化遺産データベース. 2020年9月15日閲覧。

参考文献

外部リンク




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