一味の逃亡とフォークスへの尋問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:17 UTC 版)
「火薬陰謀事件」の記事における「一味の逃亡とフォークスへの尋問」の解説
11月5日、私たちは議会を開会した。この議会には国王が直接出席するはずであったが、その日の朝に発覚されたある企てによって出席を見送られた。この計画は玉座に座られた国王を、王が従えた、その子供たち、貴族、平民、さらに司教、判事、博士を巻き込み、一瞬にして爆破するというものであった。刹那の爆発によってイングランドの国家と王国全体を破滅させる気だった。 そして、これを実現するため玉座の真下にあたる議場の地下に約30バレルの火薬と、大量の木材、ファゴット、鉄片、鉄の棒が置かれていた。 エドワード・ホビー卿(御寝所係官(英語版))からブラッセル(Brussells〔ママ〕)大使のトマス・エドワーズ卿への手紙の抜粋 「ジョン・ジョンソン」逮捕のニュースがロンドンに残っていた仲間たちに広がると、彼らのほとんどは即座にワトリング・ストリート(英語版)に沿って北西(ミッドランズ方面)に逃げた。まず、このニュースはストランド地区の豪邸(グレートハウス)を中心に広まった際に、クリストファー・ライトが事態に気づき、宿屋「ダック・アンド・ドレイク」に泊まっていたトマス・ウィンターの元へ駆けつけた。ウィンターは彼にニュースの真偽を確認するように命じ、政府が(ジョン・ジョンソンの雇い主であった)トマス・パーシーを探していることを確認すると、次にパーシーに警告に向かうように命じた。こうしてクリストファーとパーシーはひと足早くロンドンを脱し、キーズもニュースを知ると即座に脱した。出るのが一足遅かったルックウッドは1頭の馬で30マイルを2時間で走り抜け、ハイゲート付近で先行していたキーズを追い抜き、さらにリトル・ブリックヒル(英語版)でクリストファーとパーシーも追い抜いた。そしていち早くケイツビー一行(残りはジョン・ライト、ベイツ)と合流し、ロンドンの事態を報告した。間もなくパーシーらも合流し、一行はディグビーが用意した馬でダンチャーチ(英語版)に向かった。キーズは別行動をとることを決め、ドレイトン(英語版)のモーダント卿の家に向かった。一方でトマス・ウィンターはロンドンに残り、様子を探るため、ウェストミンスターにも行った。暗殺計画が暴かれたことを確信すると馬でノーブルック(英語版)にある妹の家に向かった後、ウスター近郊のハディントン・コート(英語版)に向かったという。 ケイツビーら6人は午後6時頃にアシュビー・セント・レジャーズ(英語版)に立ち寄り、そこでロバート・ウィンターに会って状況報告を行った。その後、ダンチャーチに到着し、ディグビー、グラントと合流した。計画の失敗にめげず、ケイツビーは武力抗争の余地はまだあると周りを説得した。ディグビーの「狩猟隊」には国王とセシルは死んだと嘘をつき、逃亡者たちは西のワーウィックへと移動した。 ロンドンで陰謀のニュースが広まると、当局は城門(ロンドン・ウォール)に警備を増やし、港を閉鎖し、怒れる暴徒に囲まれたスペイン大使の屋敷の警護にあたった。トマス・パーシーには逮捕状が発行され、彼の庇護者であるノーサンバランド伯は自宅軟禁となった。"ジョン・ジョンソン"は最初の尋問で母親の名前とヨークシャー出身であること以外は何も明かさなかった。ガイ・フォークスの名がある自分宛ての手紙を所持していたが、偽名の一つだと誤魔化した。"ジョンソン"は容疑を否定して無実を訴えるどころか、国王と議会を破壊することが目的だったと主張した。しかし、彼は落ち着いており、自分ひとりだけの犯行だと主張した。王は彼の屈しない姿勢に感銘を受け、「ローマ人のような決断力」を持っていると評した。 11月6日、カトリックに強い憎悪を抱いていた首席裁判官ジョン・ポパム(英語版)は、ルックウッドの使用人に対し聴取を行った。その日の夜までにポパムは陰謀に関わった何名かの名前、すなわちケイツビー、ルックウッド、キーズ、ウィンター、ジョン・ライト、クリストファー・ライト、グラントを特定した。一方、「ジョンソン」は、自分の話に固執し、発見された火薬と共にロンドン塔に移送され、そこで王は彼への拷問を決定した。当時、拷問は国王大権や枢密院、星室庁などの機関による許可がなければ禁じられていた。ジェームズは11月6日付の手紙で「まずは優しい拷問が行われるべきである, et sic per gradus ad ima tenditur [and thus by steps extended to the bottom depths], and so God speed your good work.」と述べていた。「ジョンソン」は手鎖を受けて壁に吊るされていたと思われるが、彼はほぼ間違いなく拷問台の恐怖に晒されていた。11月7日に自白の意思を固め、その日の遅くに情報を吐き、その後の2日間でさらに情報を吐きだした。
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