一味同心の土壌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:09 UTC 版)
鎌倉時代以降近江は佐々木家が治め、室町時代より戦国時代にかけて近江天保一揆が起こった湖東・湖南域は佐々木一族の嫡流六角家が長らく守護大名として君臨していた。織田信長の近江侵攻により六角家が滅亡すると同家臣の多くが帰農した。近江の庄屋層や豪商の多くは先祖を佐々木家一族や六角家被官とし、強い連帯感が存在した。実際、近江商人においては明らかな郷党意識があり、甲賀郡では六角家と関係が強い甲賀五十三家や野洲郡には三上七党がおり、中世より『一味同心』・『惣国一揆掟之事』などで強く結ばれていた。一揆指導者野洲郡三上村(現野洲市)庄屋土川平兵衛の家は、戦国時代以来の湖南地侍・一向門徒衆の家であり、土川平兵衛が検地阻止について相談を行った、野洲郡上永原村(現野洲市)庄屋野依又右衛門は佐々木定綱の後裔で中世近江守護代であった馬渕氏の一族であった。三上藩郡奉行平野八右衛門、三上村大庄屋大谷治太郎・三上藩地方役人大谷治之助兄弟、小篠原村庄屋苗村安右衛門などは三上七党の出であり、平野と大谷兄弟は従兄弟同志でもあった。 また、灌漑用水分配を巡って、近江国内の川筋に沿って一村、又は複数の村が連合して井組が作られていた。井組内部の水配分については無論のこと、他の井組との交渉・協議も絶えず行われており、支配領主を超えた共同体が存在していた。土川平兵衛は野洲川の水利触頭で、川筋庄屋は全て旧知の仲であった。
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