ヴャジマ-ブリャンスクの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:38 UTC 版)
「モスクワの戦い」の記事における「ヴャジマ-ブリャンスクの戦い」の解説
ドイツ軍は計画に従って攻撃を行った。第3装甲軍は抵抗が少ない中央を突破した後、第4装甲軍と共にヴャジマの包囲を完成させるために機動戦力を北方に分割した。さらに別の部隊を南に送り、第2装甲軍と接合し、ブリャンスクの包囲網を閉じた。ソ連の防衛線はまだ構築中であったが、1941年10月10日に突出した第2、第3装甲軍の先陣はヴャジマで敵と交戦した。ソ連4個軍(19軍、20軍、24軍、32軍)はモスクワの西で包囲された。 包囲下のソ連軍は戦い続けたが、ドイツ軍は28個師団を包囲下のソ連軍を殲滅するために展開した。この28個師団はモスクワ方面の攻勢を援護する事ができた部隊を使用した。ソ連の西方面軍と予備方面軍の残部は撤退し、モジャイスク周辺での新たな防衛線に配備された。多くの損害を被ったにも関わらず、一部の包囲下の部隊は撤退に成功し、小隊から完全編成の歩兵師団に配置された。ヴャジマ付近のソ連の抵抗はスタフカが4個軍(第5、第16、第43、第49軍)でモスクワの防御を固めるための時間を稼いだ。3つの歩兵師団と2つの戦車旅団は後詰のために東シベリアから移送されてきた。 ブリャンスク近くの南方では、ソ連軍の戦闘能力は当初ヴャジマより有していた。第2装甲軍はこの都市を包囲するための機動を行い、第2軍の前進と連携し10月3日にオリョールを、6日にはブリャンスクを陥落させた。 しかし天候が変化し始めて、ドイツの行動は妨げられた。10月7日に初雪が降り、その雪が溶ける事で道はぬかるんだ沼地となった。この現象はロシアではラスプティッツァ(英語版)という現象で知られる。ドイツの機甲部隊は大幅に機動力が削がれ、ソ連軍が撤退し再編成する事を許した。 ソ連軍は局所的に反撃にでた。例として第4装甲師団はムツェンスク近郊のドミトリー・レルユシェンコ(英語版)の第4戦車旅団による待ち伏せ攻撃を受けた。ドイツの機甲部隊が防衛線を超えて進軍してきたので、新たに製造されたT-34は森に隠された。ソ連の歩兵のよせ集めの部隊がドイツ軍の進軍を阻止している間、ソ連の戦車は両翼に回りこみ、ドイツのIV号戦車を攻撃した。ドイツ軍にとってT-34の出現とその威力はとても衝撃的であったため、グデーリアンの強い主張によりT-34についての特別な調査委員会が作られることになった。 10月31日から11月15日の間、陸軍総司令部(OKH)はモスクワへの2度目の攻勢を準備する一方、戦闘行為を一時中止した。中央軍集団は数の上ではかなりの戦力を有していたが、これまでの戦いによる疲弊のため戦闘能力が喪失していた。ドイツは東からのソ連の増援の絶え間ない到来と、大規模な予備兵力の存在に気付いたが、ソ連が莫大な損害を出してでも、モスクワを防衛しようと決意しているとは予想していなかった。しかし10月の状況と比較して、ソ連の狙撃師団はより強力な防衛陣を築いていた。3重の防衛網が都市とクライン近郊のモジャイスクの一部を囲んでいた。大半のソ連の野戦軍は多層の防衛陣を築き、少なくとも2個狙撃師団が、2層目に配置させた。 9月30日、中央軍集団はモスクワ攻略をめざしタイフーン作戦を開始した。第3装甲軍と北方軍集団から転用された第4装甲軍は10月2日に攻勢を開始し10月7日にヴャジマで合流しソ連軍4個軍(第19軍・第20軍・第24軍・第32軍)を包囲した。中央軍集団はブリャンスク周辺とヴャジマ周辺に2つの包囲網を形成し、相当な戦力を有するソ連軍を壊滅、事実上ソ連軍第19軍を主力とする西方面軍司令部を機能しない状態にまで追い込んだ。ドイツ軍は装甲部隊をより効率的に運用するため10月5日~8日にかけて各装甲集団を独自の補給段列を持つ装甲軍へと改編した。10月3日に第2装甲軍の第4装甲師団がオリョールを攻略し、10月6日には第2軍と第17装甲師団がブリャンスクを攻略した。ブリャンスク方面軍は退路を断たれたが中央軍集団に後背地のソ連軍を包囲殲滅する余力はなく、各部隊は重装備を放棄して東方に逃れた。 10月15日、スターリンは共産党、将軍、様々な政府の職員に僅かな人員だけを残して、モスクワからクイビシェフ(現在のサマーラ)に撤退するよう命じた。この撤退はモスクワ市民の混乱を招いた。10月16日、17日は多くの市民が逃亡しようと試み、列車に殺到し、モスクワからの道路は渋滞した。それにも関わらず、スターリンはモスクワに留まり、秩序を保とうとした。 10月14日には、第3装甲軍はヴォルガ川を渡河し、モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道を断ったほか、10月末には第2装甲軍の部隊がトゥーラ近郊まで到達することに成功した。
※この「ヴャジマ-ブリャンスクの戦い」の解説は、「モスクワの戦い」の解説の一部です。
「ヴャジマ-ブリャンスクの戦い」を含む「モスクワの戦い」の記事については、「モスクワの戦い」の概要を参照ください。
- ヴャジマ-ブリャンスクの戦いのページへのリンク