レーガンと1980年選挙
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「アメリカ合衆国の歴史 (1980-1991)」の記事における「レーガンと1980年選挙」の解説
保守的な感情が世に訴えてくるようになったことに加えて、ジミー・カーター大統領は1980年大統領選挙の予備選挙で、リベラルの象徴であるマサチューセッツ州のエドワード・ケネディ上院議員の挑戦を容易に斥けた時に、再選の見込が強くなった。経済のスタグフレーションと外交ではアメリカがソビエト連邦に対して弱腰であると認識される背景にあって、前カリフォルニア州知事のレーガンは予備選挙の大半を制して共和党の大統領候補指名を掴んだ。レーガンは、共同大統領という要素にもなりうるジェラルド・フォードについて前例の無いような妥協に失敗した後、予備選挙での主要な対抗馬だったジョージ・H・W・ブッシュを副大統領候補に選んだ。レーガンはその選挙運動中に、カーターの外交政策に関する弱点を明らかにするために、その外交助言者としてカークパトリックに頼った。 レーガンはベトナム戦争後のアメリカ外交政策が落ち着かないことを止め、国の軍事力を回復させることを約束した。供給面重視の経済によって経済の健全さを回復することも約束した。この政策はその副大統領候補ブッシュが「ブードゥー(魔術的)経済学」と言って非難していたことだった。しかしこれら全ての目標は理路整然とした経済政策とは相容れないものだった。 供給面重視の経済学者は、アメリカ経済の問題の大部分は過剰な課税の結果であると主張し、それが個人投資家から金を「締め出し」、そのために経済成長を阻害していると主張した。彼等の主張する解決策は民間の投資を奨励するために全体的な、特に上位所得層の減税を行うというものだった。 大衆、特にサンベルトの中流階級はレーガンの提案に同意し、1980年の選挙ではレーガンに投票した。批評家達はレーガンが連邦政府の援助計画を攻撃することは中流階級にアピールするために仕組まれたものであり、おそらく問題に直面している貧困家庭や少数民族には無関心だと非難した。1970年代の問題、例えばブレトン・ウッズ協定による国際金融秩序の破綻、1973年のエネルギー危機およびアメリカ製造業の衰退における国際的経済要素も指摘し、これらはアメリカ合衆国大統領の統制を超えていると指摘した。 1980年の大統領選挙はアメリカ政治の重要な転換点だった。それは郊外やサンベルトの新しい有権者勢力があることを示した。またタカ派外交政策に転ずる前兆にもなった。 第三の政党候補者、イリノイ州選出の連邦下院議員ジョン・B・アンダーソンは中道共和党員であり、選挙はうまくいかなかった。その選挙運動の主要問題は経済のスタグフレーション、国家安全保障に対する脅威、イランアメリカ大使館人質事件、およびアメリカの偉大な日は終わったことを示すように見える大衆の無力感だった。カーターはインフレーションの克服に無力であるように思われ、テヘランの人質救出には失敗していた。カーターはデタントを指向する補佐官を解任し、急速にソビエトと対決する姿勢に変えたが、レーガンはそれがあまりに些細で余りに遅すぎるといった。 選挙人選挙ではレーガンが489票を得たのに対し、カーターは49票しか得られず、レーガンの地滑り的大勝になった。共和党は民主党上院議員12人を破り25年ぶりに上院の多数派を取り戻した。一般選挙でのレーガンの得票は43,904,153票(投票総数の50.7%)であり、カーターは35,483,883票(同41.0%)だった。ジョン・アンダーソンは5,720,060票に過ぎなかった。
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