レッズ時代1回目 (1978年-1979年)
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「ナッシュビル・サウンズ」の記事における「レッズ時代1回目 (1978年-1979年)」の解説
1978年、サザンリーグ、ダブルAのフランチャイズを展開し、ナッシュビル・サウンズを結成してシンシナティ・レッズと提携した。 ヴァンダービルト大学野球部ヘッドコーチのラリー・シュミトウがナッシュビルのプロ野球チーム復活に尽力し、サウンズの会長およびオーナーの1人となった。シュミトウのビジネス哲学として、チケット売り上げだけでなく関連商品や売店からも利益を上げようとした。この哲学にはエンターテイメント施設としてなど野球場として以外の娯楽施設としてのプロモーションも含まれた。地元紙で球団結成計画を知ったカントリー・ミュージック・スターのコンウェイ・トゥイッティの助力を得て、シュミトウはラリー・ゲイトリン、ジェリー・リードなどプロのアーティストの他、ナッシュビル市民をサウンズの株主とした。 ナッシュビルのダウンタウンの南にあるフォート・ネグリー・パークのセント・クラウド・ヒルのふもとにできた新球場ハーシェル・グリア・スタジアムを本拠地とした。市内に野球チームが復活したことにファンは喜び、観客数はサザンリーグの中で7シーズン1位であった。1980年、総観客数合計575,676名を記録した。チーム名は1950年代後期の、この地域をルーツとするアメリカン・カントリー・ミュージックのサブ・ジャンルであるナッシュビル・サウンドから名付けられた。サウンズのロゴと色合いはアメリカン・バスケットボール・アソシエーション(ABA)のボルチモア・クロウズになる直前のメンフィス・サウンズが1974年の1シーズンのみ使用していたものに似ていた。1976年にABAがNBAと合併した際、いくつかの著作権の放棄に合意したため、ナッシュビル・サウンズがこのロゴを問題なく使用できるようになった。メンフィス・サウンズの赤と白に青が加えられた。1978年から1997年まで使用されたナッシュビル・サウンズのロゴはナッシュビルがカントリー・ミュージック業界と関連していることを表していた。口ひげを生やした野球選手が、カントリー・ミュージックの必需品であるギターをバットに見立ててボールを打っている様子が描かれていた。また、「Sounds」の「S」をト音記号に似せ、市と音楽との繋がりを表現していた。1981年から1984年、シュミトウはアイスホッケーのマイナーリーグのナッシュビル・サウス・スターズを所有しており、ホッケーをテーマにしているがギターを振っている様子はサウンズのロゴと似ており、色合いはナショナルホッケーリーグのミネソタ・ノーススターズと似た緑と金色である。 1978年4月26日、サウンズの最初のホームゲームが行なわれ、完売の8,156名が見守る中サバンナ・ブレーブスと対戦して12対4で勝利した。当初前日の4月25日に予定されていたのだが、雨により延期されていた。球場完成に時間が必要であったため、球団はチャタヌーガ・ルックアウツと交替し、シーズン開幕戦を遠征先で行なうことを提案した。試合日、トラクターなどの重機がまだ作業を続行し、電気が点灯したのは開門5分前であった。芝生の到着が遅れ、総支配人のファレル・オウエンズが地元ラジオ局で「芝生パーティ」を行なうと語り、ファン推定50名の助けを得て試合予定前日に芝を貼った。レッズのダブルAとしての1年目である1978年、サウンズは第9位となったが、380,000名を集客して全てのマイナーリーグ野球の中でも首位となった。 翌1979年、ジョージ・シャーガー監督のもと、サウンズの開幕試合は散々なものであったが5月と6月には31試合中20試合勝利した。シーズン前半は首位であったが、その後ライバルである州内のメンフィス・チックスに次いで第2位となった。最終日、サウンズとチックスはダブルヘッダーで再び対戦し、2回ともサウンズが勝利した。2チームはその後ウエスタン・ディヴィジョン決勝戦3試合で再度試合することとなった。サウンズは2対1で優勝し、サザンリーグ決勝戦に進出してコロンバス・アストロズと対戦した。3対1でアストロズを征し、ナッシュビルが復帰後初のリーグ優勝を達成した。1979年、チームはサザンリーグ・オールスター・ゲームを主催した。リーグの選抜選手とメジャー・リーグのアトランタ・ブレーブスと対戦し、5対2でオールスターが勝利した。ナッシュビルのデュアン・ウォーカーがMVPとなった。 元々、レッズはナッシュビルに指名打者をラインナップに使用することを認めていた。しかしレッズが、指名打者を使用しないナショナルリーグに加盟したため、これを取り消した。ラリー・シュミトウ会長は最後通告として、もしシンシナティが指名打者の使用を認めないのであればサウンズは契約更新せず、新たなメジャーリーグ・チームを探すと通達した。レッズは指名打者禁止を破棄しなかったため、1979年のシーズン後に提携を解消して新たな提携先を探すことになった。シュミトウはその後5〜6球団と接触した。
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