レッズ時代2回目 (1987年–1992年)
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「ナッシュビル・サウンズ」の記事における「レッズ時代2回目 (1987年–1992年)」の解説
1987年、サウンズはトリプルAとして再びシンシナティ・レッズと提携した。そのため多くのマイナーリーグの選手がレッズの組織であり違う階級のナッシュビルの球団で試合した。1987年のシーズンでは上位に位置していたが、シーズン半ばに主力選手を何名か失いスランプに陥り、64勝76敗で最下位となった。怪我により棄権していた三塁手のクリス・セイボーはシンシナティに昇格し、1988年、サウンズ史上初めてナショナルリーグのルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。 1988年、サウンズは最下位となり、シーズン終盤に多くの経営陣が交替した。1988年7月から8月の2週間で監督が5人代わった。ジャック・リンド監督でシーズン開幕したが、健康問題により離脱した。ピッチングコーチのウェイン・ガーランドが暫定的に監督を務め、その後1979年にサザンリーグ決勝戦に導いた元監督のジョージ・シャーガーが就任した。1試合で退任し、ジム・ホフが就任したが、レッズとの事務手続きを済ます前に数日で退任した。ついにテキサス・レンジャーズの元監督フランク・ルッケージが残りのシーズンのサウンズの監督を務めることとなった。ルッケージはシーズン終盤の39試合で監督し、最終的に73勝69敗となった。イースト・ディヴィジョンで2位となり、プレイオフを外れた。 1988年8月6日と7日、インディアナポリス・インディアンスと対戦し、それぞれの試合でノーヒットを分け合った。まずはインディアナポリスのランディ・ジョンソンとパット・パシロが共にノーヒットとなったが、1対0でナッシュビルが勝利した。翌日、ナッシュビルのジャック・アームストロングがノーヒットとなり、4対0でナッシュビルが勝利した。これがサウンズ史上3番目のノーヒットとなった。 1989年、74勝72敗で3位となり、1990年、86勝61敗となり、アメリカン・アソシエーション加盟後最高の勝率となった。レギュラー・シーズンでバッファロー・バイソンズと引き分け、イースト・ディヴィジョン決勝戦でサウンズが勝利した。延長18回表、クリス・ジョーンズのツーラン・ホームランで幕を閉じた。アメリカン・アソシエーション決勝戦に初進出し、オマハ・ロイヤルズと対戦して3対2で敗退した。この年、グリア・スタジアムの集客数が計605,122名となり、記録を更新した。 1991年、サウンズは1位で開幕したが、それは10日間しかもたなかった。5月1日までに球団はイースタン・ディヴィジョンで3位まで落ち、シーズン終わりまでこのままであった。ナッシュビルは毎月勝率を落とし、優勝者のバッファロー・バイソンズとは16試合差であった。ヒット、打点、得点、ホームランに導いた一塁手のテリー・リーはシーズン半ばにトリプルAオールスター・ゲームとリーグのポストシーズンのオールスター・チームに選ばれた。翌年、レッズとの提携が最後になった。67勝77敗で4位となった。
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