人代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:54 UTC 版)
ニニギが所有して以降、神武天皇東征や欠史八代等で天叢雲剣(草薙剣)がどのように扱われていたかは、『古事記』『日本書紀』とも記載していない。皇居内に天照大神の神体とされる八咫鏡とともに祀られていたが、崇神天皇の時代に、皇女トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫命)により、八咫鏡とともに皇居の外(倭の笠縫邑)で祀られるようになった。『古語拾遺』には子細が語られている。天目一箇神とイシコリドメの子孫が「神鏡」と「形代の剣」(もう一つの草薙剣)を作り、天皇の護身用として宮中に残された。神威はオリジナルと変わらなかったという。続いて崇神天皇の命令を受けた豊鍬入姫命は、倭の笠縫邑に神鏡と草薙剣を祀った。 垂仁天皇の時代、ヤマトヒメ(倭姫命)に引き継がれ、トヨスキイリヒメから、合わせて約60年をかけて現在の伊勢神宮・内宮に落ち着いた(「60年」以降の部分は『倭姫命世記』に見られる記述である。詳細記事:元伊勢)。この時点で、天叢雲剣は伊勢神宮で祀られることになった。 景行天皇(第12代)の時代、天叢雲剣(草薙剣)は伊勢国(伊勢神宮)のヤマトヒメから、東国の制圧(東征)へ向かうヤマトタケル(日本武尊)に授けられた。神剣を授けるにあたりヤマトヒメはヤマトタケルに言葉をかけるが、複数の異伝がある。『古事記』では、草薙剣と共に火打石入りの袋を渡して「若(も)し急(にはか)なる事有らば、この嚢(ふくろ)の口と解(と)きたまへ」と詔る。『日本書紀』や『古語拾遺』では「慎莫レ怠也(慎んで怠ることなかれ)」と訓戒した。平安時代の熱田神宮に伝わっていた記文(由緒)によれば、アマテラスはヤマトヒメに神懸りして「さきのむまれ、そさのをのみことたりし時、出雲の国にて八またのをろちの尾のなかよりとりいでて、我にあたへしつるぎなり(この剣は、そなた〔ヤマトタケル〕が前世でスサノオであったとき、出雲国で八岐大蛇の尾よりとりだして、私に献上した剣です)」と伝えている。一説によると、ヤマトタケルは天皇から授かった天之広矛/比比羅木八尋矛(ひひらぎのやひろのほこ)を、神宮に預けたという。 その後、ヤマトタケルは相武国(『古事記』および『古語拾遺』)もしくは駿河国(『日本書紀』、熱田神宮伝聞)で、敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、剣で草を刈り払い(記と拾遺のみ)、向い火を点け脱出する。日本書紀の注では「一説には、天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払い、これにより難を逃れたためその剣を草薙剣と名付けた」とある。 東征の後、ヤマトタケルは尾張国で結婚したミヤズヒメ(宮簀媛)の元に剣を預けたまま、伊吹山の悪神(荒神)を討伐しに行く。『古語拾遺』では「剣を解きて宅(いえ)に置き、徒(たむなで)で行きでまして胆吹山に登り、毒(あしきいき)に中(あた)りて薨(かむさ)りましき。」として、草薙剣をミヤズヒメの元に置いて出陣したことで、ヤマトタケルは神剣の加護を失ったと暗示する。『尾張国風土記』においては、宮酢媛の屋敷に滞在していたヤマトタケルは、夜中に厠へ入る時、脇の桑の木に剣を掛け、そのまま忘れて部屋に戻った。思い出して桑の木に戻ると、剣が神々しく光輝いて手にする事ができなかったという。ミヤズヒメにヤマトタケルは「剣を私の形影(みかげ)として祀るように」と告げて出陣した。『尾張国熱田太神宮縁起』(平安時代初期)では、ヤマトタケルは桑の木から光剣を手にとったものの、ミヤズヒメに「我が床の守りとせよ」と告げて出陣した。 結局、ヤマトタケルは伊吹山の神(白猪〈『古事記』〉、大蛇〈『日本書紀』〉、八岐大蛇の化身とも)によって病を得、大和国へ帰る途中で、最期に「剣の太刀、ああその太刀よ」(記)、もしくは「孃女おとめの、床の邊べに、わが置きし、剱つるぎの太刀、その太刀たちはや。」と草薙剣を呼んで亡くなってしまった。その後、ミヤズヒメは夫(ヤマトタケル)と草薙剣を祀り、これが後の熱田神宮となった。
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