レギュレーションとの戦い
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「岡部孝信」の記事における「レギュレーションとの戦い」の解説
学生時代に無名だった岡部が飛躍する一因として、1994年夏に導入された「57%ルール」への驚異的な適応が挙げられる。 57%ルールとは、スキー板と足を固定するビンディングの位置をスキー先端から57%以内の位置に取り付けなければならないというルールであった。 空中での浮力のカギとなるのはスキー板のビンディングより前の部分であるため、このルールが施行される以前は58%から60%の位置にビンディングを付ける選手が多く、スキー板の浮力を受ける部分を短くされたことで苦戦する選手が続出した。 岡部は57%ルールに対応するためのテクニック変更に、いち早く取り組んだ。深く腰を落とした助走路姿勢や、カンテ(踏切台)を踏みつけるようなテイクオフなどの工夫を重ね、94年夏のサマーグランプリでは全戦優勝という圧倒的な強さで総合優勝を手にしている。(なお、前シーズン日本のエースであった葛西紀明は、このルールの影響で深刻なスランプに陥っている)。 その一方で、岡部は、1998年の長野オリンピック直後に施行された「146%ルール」によって、最も不利な影響を受けた一人である。 146%ルールとは、スキー板の長さを最大で身長の146%までとするというルールであり、このルールでは身長の高さに比例してスキー板が長くなる。長いスキーは滑走面増加による助走速度向上や、空中での浮力増などの恩恵が得られるため、結果として身長の高い人ほど有利になった。逆に、低身長の選手が多い日本チームなどは、助走速度や空中浮力が減少するため、以前より不利な条件で戦うことになった。 施行直後の夏の国内大会こそ上位に入り、同年のサマーグランプリ代表に選出されたが、98サマーグランプリの第2戦プレダッツォ大会の9位を最後に、成績は下降線をたどった。以後も苦しい戦いが続き、海外遠征からは遠のいた。成績が出なかったこの時期について、2006年のインタビューでは「自分でいろいろ考えて、崩れていったと思う。」と岡部は語っている。 146%ルール施行後は短いスキー板に対応するため、岡部は技術の変更を取り組んだ。1998-1999シーズンは「V字ジャンプの幅を少し広くすること」。1999年の夏からは、空中でスキーからの浮力が減り、スキーが身体から離れていってしまうことへの対策として、「テイクオフの方向を上向きに修正、以前より高い飛行曲線を描き、落下の力でスキーと身体に一体感を持たせること」などに取り組んでいた。この成果もあってか、2000年のスキー板の形状の規格変更(いわゆる「四角いスキー」の登場)による浮力増にも後押しされ、徐々に復調の気配を見せはじめた。 2001年ラハティ世界選手権に代表復帰。翌2001-2002シーズンは国内で強さを見せた。しかし2002年ソルトレークシティオリンピックの代表からは外れている。その後もなかなか海外遠征メンバーには選ばれなかったが、2004-2005シーズンにスキージャンプ・コンチネンタルカップで連続2位に入り、自力でワールドカップの舞台に復帰した。この年の世界選手権オーベルストドルフ大会の代表にも選出されている。 2005-2006シーズンは、2005サマーグランプリ終了後に取り組んだジャンプスタイルの変更で復活を遂げ、再び日本のエースの座に返り咲いた。この35歳岡部の復活は特にジャンプの本場ヨーロッパで大きく紹介され、奇跡的であり、また脅威的であるといわれた。オーストリアの雑誌で岡部の特集が組まれたほどである。シーズンジャンプ週間総合6位、札幌ワールドカップでは8季ぶりに表彰台に上った。このときの35歳3か月と27日での表彰台は、当時のワールドカップ史上最年長記録となり、後に上記の2009年の優勝によって自ら記録を更新した。 2007年2月の世界選手権札幌大会では、ラージヒル団体で銅メダルを獲得し、当時の史上最年長世界選手権メダリストともなった。2年後の2009年2月の世界選手権リベレツ大会では、ラージヒル団体で2大会連続となる銅メダルを獲得し、自身の持つ最年長世界選手権メダリストの記録を更新した。このときの岡部のジャンプは、2本ともグループトップであった。
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