リトル・ビッグ・ホーンの戦いとは? わかりやすく解説

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リトルビッグホーンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/08 14:21 UTC 版)

リトルビッグホーンの戦い(リトルビッグホーンのたたかい、Battle of the Little Bighorn)は、1876年6月25日アメリカ合衆国モンタナ州リトル・ビッグホーン川流域で行われたアメリカ陸軍と北米先住民インディアンとの戦いである。ちなみに、これは白人側の呼称であって、インディアン側の呼称は、「グリージーグラス川の戦い」(Battle of the Greasy Grass)である。


  1. ^ スー族の戦士レッド・ホースが戦後に描いた絵では、中央にシャイアン族の会議用ティピーが描かれている。
  2. ^ a b c d Unsolved History episode5 "Custer's Last Stand", first aired at November 6, 2002,Discovery Channel


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リトルビッグホーンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/22 06:12 UTC 版)

フレデリック・ベンティーン」の記事における「リトルビッグホーンの戦い」の解説

1876年モンタナのリトルビッグホーン川(インディアン側の呼称はグリージー・グラス川)流域への遠征の際、カスターの下でベンティーンは再びH中隊指揮した。リトルビッグホーン川から約12マイル (19 km) でH、DおよびK中隊からなる1個大隊指揮任された。ちょうどこのとき、ダコタラコタスー族シャイアン族、アラパホー族の連合体約1,500人(1,800人とする資料もある)が、夏至時期に行う「サン・ダンスの儀式」の打ち合わせと、今後の対白人政策協議のためにリトルビッグホーン河畔結集していた。カスターインディアンがいる正確な所を知らなかったが、ベンティーンには左側面を守る任務与えた。ベンティーンは約2時間荒地偵察した収穫無くその後主力部隊道筋戻った。川の方向向かっていくとカスターからの伝令遭い、まもなくもう一人伝令現れ大きな野営地が見つかり、ベンティーンも前進するよう伝えてきた。「大きな野営地急げ部隊連れて来いカスターはベンティーンに、遅いラバの1隊は後方にやってM中隊に守らせ、その中隊連れてカスターの5個中隊に加わるように示唆していた。これらの隊は連隊予備弾運んでいた。しかし、ベンティーンはちっとも急がず貴重な20分を使って浅瀬で馬に与えた。しかし、前方銃声聞いたベンティーンはその部隊早駆けさせた。 まずマーカス・リノ少佐率いるM、AおよびG中隊からなる1個大隊が、インディアン斥候とともにリトルビッグホーン川沿い大野営地のうち、南西隅側に陣取っていたゴールらのハンクパパ・スー族の野営奇襲した。が、すぐにクレイジー・ホースらオグララ・スー族がハンクパパに加勢リノ隊はカスター片腕務めたアリカラ族のブラッディ・ナイフ酋長インディアン斥候を失う大損失を出して壊走させられボロボロになった残り部隊はなんとか川を渉り、崖に登った。リノ部隊はまだ銃撃受けており弾薬残り少なくなっていたが、リノ実質的にベンティーンの上官だったので、ベンティーンに弾薬分け与えるよう命令したリノ目に見えるほど震えており、効果的に指揮執る能力消えていた。数分後に北で大きな銃声を崖の上部隊聞きクレイジー・ホースらオグララ族はリノとベンティーンの部隊から向き変えて野営地戻り銃声方に向かった一方、ハンクパパ族らはリトルビッグホーン川をさかのぼって左岸側リノ隊を追撃敗走中のリノ隊は、これらの一斉射撃音をカスター部隊交戦中と理解したが、その程度まではリノもベンティーンも分からず余裕もなかった。二人状況を見るために進もうとはせず、これが後にカスター捨てたではないかという議論生んだネルソン・マイルズ将軍そのこと告発した)。 川の右岸側をさかのぼったダコタ族ラコタ族シャイアン族、アラパホー族は、左岸側から川を渡って攻め込んだハンクパパ族とメディシン・テイル峡谷越えてカスター大隊挟み撃ちにしてこれを破壊し続いてその注意リノとベンティーンの部隊に向け、現在「リノ・ベンティーン防御陣地」と呼ばれる場所に追い込んだ。そこはリノとベンティーンが落ち合った場所に近い崖上の馬蹄形をした防衛線だった。その後24時間、ベンティーンが事実上指揮を執った。ベンティーンは2度突撃率いてインディアン後退させ、兵士達前進し過ぎるほどだった。ベンティーンは沈着冷静部隊歩き回り兵士激励し、自ら実例示してリードした。ベンティーンは親指負傷しており、長靴の踵は跳ばされていた。 ベンティーンは後に左翼探索派遣されたときから川を見下ろす崖上に着いた時まで、行動遅かったことを批判された。しかしベンティーンが偵察命じられ経路は、カスター全速駆け下りたリノ・クリークの緩り降る北支流よりも遥かに険し地形だった。 ベンティーンがカスター探し続けるよりも、リノと共に残る決断をしたことも、のちの軍事裁判批判者によって問題にされた。

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リトルビッグホーンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 21:27 UTC 版)

タイタニア」の記事における「リトルビッグホーンの戦い」の解説

シラクサ星域会戦後、流星旗軍大連艦隊結成するタイタニアが軍を派遣しリトルビッグホーンの戦いが始まる。この戦いで流星連合軍全滅する

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リトルビッグホーンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 14:11 UTC 版)

ブラッディ・ナイフ」の記事における「リトルビッグホーンの戦い」の解説

ブラックヒルズ戦争」および「リトルビッグホーンの戦い」も参照 1876年、リトルビッグホーンの戦いが起こった戦いの前、敵陣偵察していたブラッディ・ナイフは、スーシャイアンアラパホ連合軍野営地発見したが、そこに建てられティピーの数は膨大であったブラッディ・ナイフ偵察から戻ったとき「自軍比べて、敵の数があまりに多すぎる」とカスター警告したブラッディ・ナイフ以外の斥候も、同様の報告をした。副官マーカス・リノ白人たちも、懸念示した。しかし、カスターはこの忠告耳を貸さず撤収する事なく戦い突き進んだ。ある伝説では、ブラッディ・ナイフ戦いに望む前、太陽仰ぎ見て「私は、今日、日が丘の向こうに落ちるのを見ることはできないだろう」と呟いたという。ブラッディ・ナイフは、マーカス・リノ部隊配属された。リノは、ブラッディ・ナイフたちアリカラと、アリカラと同じくスー敵対していたクロウ斥候隊に、攻撃命じた。しかし、ブラッディ・ナイフたちが懸念していた通り、数の差は圧倒的であり、リノ部隊押されだした。この戦い始まってそれほど時間たたないうちに、ブラッディ・ナイフ頭部撃たれた。即死であったブラッディ・ナイフの真隣にいたリノは、ブラッディ・ナイフから吹き出した血をまともに浴びたという。混乱したリノ退却命じた退却成功したが、混乱状態で発せられた命令は、部隊混乱をも引き起こし多くの兵が犠牲となったカスター部隊は、より酷い被害であり、カスター自身戦死するなど、アメリカ軍大きな敗北喫した。 デビッド・ハンフリーズ・ミラー(英語版の手によれば戦い生還者目撃者ブラッディ・ナイフ遺族は「ゴールブラッディ・ナイフ殺した」と主張したという。ただし、この戦にゴール参加していたことは事実だが、彼の手記以外に、ゴール自らがブラッディ・ナイフ殺したという記録出てこない。その後ジョン・ギボン部隊到着しリノ部隊九死に一生得たギボン部隊は、空となったスー住まいの中で、ブラッディ・ナイフ頭皮発見した。これらの遺物1876年6月27日戦場埋葬された。その後、彼はノースダコタ州ホワイトシールド近く斥候隊の墓地に、新たに埋葬された。

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リトルビッグホーンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 18:19 UTC 版)

ブラックヒルズ戦争」の記事における「リトルビッグホーンの戦い」の解説

「リトルビッグホーンの戦い」を参照 カスターと第7騎兵隊ダコタ部隊から離れてローズバッドビッグホーン川渓谷偵察するよう命令された。6月25日、この部隊はリトルビッグホーン川西岸でスー族シャイアン族、アラパホー族の大集落奇襲し、これに失敗して全滅した

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リトルビッグホーンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/20 15:35 UTC 版)

モンタナ州の歴史」の記事における「リトルビッグホーンの戦い」の解説

リトルビッグホーンの戦いは、カスター最後の立所(Custer's Last Stand)やカスター虐殺とも呼ばれ当時先住民呼び方ではグリーシー・グラスの戦いとも呼ばれた。これはラコタ族北部シャイアン族連合軍アメリカ陸軍第7騎兵隊の間の武装闘争だった。1876年6月25日から26日モンタナ準州東部リトルビッグホーン川の近く起こった。 何千ものインディアンがその居留地から逃げ出した軍隊指揮官達は3隊に分かれた遠征隊を組織して彼等集め居留地に戻す計画立て歩兵騎兵さらにはガトリング砲機関銃一種)を含む砲兵小さな分遣隊使ったカスター部隊6月24日夜に今はモンタナ州となっているリトルビッグホーン川の東14マイル (23 km)の見通し良い場所に到着したテリーギボン部隊はリトルビッグホーン川河口向かっていた。 戦闘開始からおよそ3時間の間に、カスター部隊全滅した。第7騎兵隊の2名のみがカスターインディアン戦っているのを目撃したと後に報告した。若いクロウ族カーリーという名の者と、ピーター・トンプソンという騎兵カスター部隊背後倒れていたが、カスター隊の最後の瞬間証言不確実なものである。ラコタ族証言拠ればクレイジー・ホースが自らラコタ族の大集団率いて騎兵隊圧倒したと言っていた。正確な数は不明であるが、北部シャイアン族ラコタ族勢力比は約3対1と推計されており、戦闘のある場面では5対1にまで拡がっていたと言われるラコタ族同盟者であるアラパホ族シャイアン族と共にリトルビッグホーンの戦いで第7騎兵隊破り258名の兵士殺害し連隊損失率は50以上になった。しかし、その3年後のアフリカはイサンドルワナにおけるズールー族イギリス対す勝利と同様、犠牲多くて割の合わない戦いになったラコタ族その後一連の戦闘補強されアメリカ陸軍敗れ居留地追い返されバッファロー狩り止められ、「友好的な者」のみに政府が行食料配給政策に従わされた。ラコタ族1877年ブラックヒルズ地区合衆国譲渡する条約署名させられたが、小規模戦闘状態が継続し最終的に14年後、スタンディングロックでシッティング・ブル殺害1890年12月15日)と、パインリッジでのウンデット・ニーの虐殺1890年12月29日ということになった

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リトルビッグホーンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/02 15:53 UTC 版)

マーカス・リノ」の記事における「リトルビッグホーンの戦い」の解説

リノ1876年6月のリトルビッグホーンの戦いではカスターの下で最高位士官だった。カスター隊はリトルビッグホーン川(インディアン呼び名はグリージーグラス川)そばに野営するダコタラコタスー族シャイアン族、アラパホー族総勢1500人のティーピー野営を見つけ、これを攻撃する計画立てた。(リトルビッグホーンの戦い) インディアン斥候もたらすインディアンたちの野営規模明らかになるにつれ、リノカスターに対して慎重な行動をとるよう進言した。これはリノだけでなく、リー族(アリカラ族)のブラッディ・ナイフ酋長や、スー族白人混血斥候のミッチ・ブイエ、またクルック将軍周囲口を揃えてカスター忠告したことだった。インディアン側は、彼らの斥候報告によって、前の日からカスター隊を把握していた。攻撃ギボン隊など全部隊が揃ってから、26日に行うこととなった一方カスターはこれら経験豊かな軍人たち忠告に全く耳を貸さず25日になると、クルック将軍らの部隊到着を待つこともせず独断リノに3個中隊を率いて南端からインディアン一大野営地を襲えと命令した。これと同時にカスター隊は5個中隊を率いて、リトルビッグホーン川(グリージーグラス川)の右岸側へ渡り北へ進んで東側から野営地を襲うことになったカスターは3個中隊をフレデリック・ベンティーン大尉預けインディアンたちの野営地南方移動してインディアンが南に逃げるのを遮るよう命令した。トマス・マクドーガルの中隊には、弾薬物資積んだ輜重隊連れてこいと命令した正午ごろ、リノはまず、一大野営地南端野営していたハンクパパ・スー族を奇襲した。しかしすぐにクレイジー・ホースらオグララ・スー族が加勢してきて反撃し予想反して四方散開したリノ部隊に馬を下り散開線布くよう命令したが、直ぐに数百名のインディアン側面を衝かれたので、リノは川に沿った森林後退したインディアンたちが中に進入してきたので、リノはその陣地維持できない考え隊列乱しほうほうの体急遽川を東へ渡り対岸の崖上に登って、部隊兵今日リノの丘」と呼ばれている所に防御的陣地形成させた。この時までにリノ部下140名のうち40名が戦死し13名が負傷16名は中に取り残されていた(ただし、これら見捨てられた者達の大半はなんとかリノ隊に合流できた)。第7騎兵隊に付けられたアリカラ族のブラッディ・ナイフは、リノの横に立っていて頭を撃ち抜かれ宿敵ゴールに喉を裂かれた。その他の斥候大半はこっそり逃げ出したリノ隊が攻撃受けている間に、ベンティーン大尉が3個中隊を率いてリノ陣地到着し加勢その後間もなくマクドーガルの中隊輜重隊連れて到着した散発的な銃弾が丘に向かって放たれていたが、離れた北東で続く激し銃声カスター激闘していることを示していた。ここで何故リノとベンティーンが前進してカスター隊に合流しようとしなかったかが、今でも熱い議論になっている。ベンティーンの下でD中隊長だったウェア大尉は3マイル(約5km向こうカスター隊の戦闘に加わろうと、今日ウェア地点」と呼ばれる高い崖に部隊率いて行ったが、間もなく激し攻撃にあって命からがら安全地帯リノ陣地まで戻ったインディアン達はカスター隊を全滅させた後、リノの丘より高い、遮るもののな地形占めて暗くなるまで兵士達銃弾注ぎ続けたリノとその部隊カスター隊に起こった事を知る術も無かった銃撃翌朝夜明け再開され午後遅くまで続いたが、このころ兵士達遠くインディアンティーピー片づけられ、彼らが立ち去るのが分かった。翌27日の朝、残っていた部隊は川に近付くことができ、そこでアルフレッド・テリー将軍ジョン・ギボン大佐部隊落ち合うことができた。リノ部下のうち13名がこの戦闘における勇敢さ名誉勲章受章した

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