ヨーロッパ各地でのユダヤ人追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「ヨーロッパ各地でのユダヤ人追放」の解説
エドワード1世(在位1272年 - 1307年)の時代のイギリスでは、イギリス化(ノルマンとサクソンの融合)が進むとユダヤ人はさらに孤立し、ユダヤ人の子供も課税され、教会はユダヤ人への食品販売を禁止したため餓死者もでた。ユダヤ人医師による医療行為も禁止され、ユダヤ人による高利貸し独占を妨害するために教皇はカオール人など南フランス人、北イタリアの金融業者をロンドンへ進出させた。 また1275年、ユダヤ法(Statute of the Jewry)によって高利貸付は禁止された。ユダヤ人が生活苦によって貨幣変造をしたことが発覚すると、ユダヤ人全員が投獄され、そのうち263人が絞首刑のうえ四つ裂きの刑に処せされた。また、改宗施設に行くことを拒否したユダヤ人は財産没収の上、国外へ追放された。1290年、イングランドでロンバルディア商人が勢力を伸ばすと、ユダヤ人の特権は失われ、ユダヤ人商人は放逐された。 フィリップ4世端麗王(在位:1285年 - 1314年)の時代のフランスでは、1288年トロワでの異端審問裁判で13名のユダヤ人が儀式殺人で火刑に処せられた。トロワで犠牲になったイツハク・シャトランを称えた詩では「復讐の神よ、妬み深き神よ、これら不実の輩に復讐せよ」と書かれた。 1290年、ビエット街事件が発生した。パリでヨナタスというユダヤ人債権者が、債務者のキリスト教徒にサン・メリー教会(4区)から聖餅(ホスチア)を盗めば借金のかたを返すといって、聖餅を手に入れた。帰宅して聖餅をナイフで刺すと、血が流れ、熱湯に入れても血が流れ続けた。ヨナタスは隣のキリスト教徒の家に逃げて罪を告白し、聖餅はサン・ジャン・アン・グレーヴ教会司祭の手に渡り、ヨナタスは火刑となった。 1306年、財政窮乏に苦しんだフィリップ4世は、ユダヤ人とロンバルド人(イタリア)商人の財産を没収した上で国外追放し、その一部は南フランスへ移住した。これ以前にもフィリップ2世、聖ルイ王などもユダヤ人追放を計画したことはあったが、これがフランス史上初のユダヤ人追放となった。 追放令について年代記では、神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世が「皇帝奴隷」であるユダヤ人の返還を求めたためフランス王はこれに応じたとされている。フランスの庶民はキリスト教徒の金貸し業者よりも親切なユダヤ人金貸し業者を懐かしんだという記録もある。 1294年、スイスのベルンで儀式殺人事件が告発され、ユダヤ人が追放された。 1298年4月、レッティンゲンで聖餅(ホスチア)事件。聖餅を冒涜したとして、名士リントフライシュが復讐を叫び、ユダヤ人集落を襲撃して、殺害した。リントフライシュ率いる暴徒集団は、フランケン地方、バイエルン地方で「ユダヤの殺戮者」を名乗って、ユダヤ人の町を襲撃して、洗礼を受け入れた者以外を9月までの数ヶ月間に虐殺を続けて、ユダヤ人の犠牲者は数千人から10万人に及んだ。同1298年、ヴュルツブルクでも迫害が起きた。 1309年 - 十字軍計画が計画倒れになった際、ドイツのケルン、オランダ、バラバンでユダヤ人虐殺事件が起こった。 1311年、ウィーン公会議で金利貸しを裁判にかける権限が異端審問裁判所に認められた。
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