ヨーロッパ各国によるコーヒー栽培の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:26 UTC 版)
「コーヒーの歴史」の記事における「ヨーロッパ各国によるコーヒー栽培の開始」の解説
17世紀、ヨーロッパの商人たちはエジプトで購入したコーヒー豆をヨーロッパで転売して多額の利益を得ていた。その中で、オランダの商人は自分たちで栽培した豆を売って利益を得ようと考え、1658年にオランダ東インド会社がスラウェシ島、セイロン島へコーヒーの苗木を持ち込んで栽培を試みた。さらに1680年にオランダの植民地であるジャワ島にモカから取り寄せられたコーヒーノキの苗木が植えられ、1696年にバタヴィア(ジャカルタ)にプランテーションが設置された。1706年ジャワからアムステルダム植物園にコーヒーの木が届く。この木の種子が1715年頃スリナムで育てられ、フランス領ギアナへ伝わった。さらに1726年ブラジルへ持ち込まれ大規模栽培へ繋がる。1723年には1711年/12年にヨーロッパに初めてジャワコーヒーがもたらされる。アムステルダムの種子はパリの王立植物園にも届き、1727年にはそこからモーリシャスに伝えられた。 1830年に総督ファン・デン・ボスによって実施された強制栽培制度では、コーヒーも栽培作物の一つに指定される。1731年にオランダは一時的に停止していたセイロン島でのコーヒー栽培を再開するが、1880年頃にセイロン島のコーヒーはさび病(Hemileia vastatrix)で壊滅し、島では茶の栽培が始められた。ジャワ島のコーヒーもさび病で壊滅し、従来植えられていたアラビカ種に代えて病虫害に強いロブスタ種が栽培されるようになる。オランダからの独立を達成した後のインドネシアでは、小規模農家によるコーヒー栽培が主流になる。スマトラ島、スラウェシ島に残ったアラビカ種のコーヒーは、それぞれマンデリン、トラジャとして知られている。また、アチェ、バリ島、ティモール島も良質なコーヒーの産地となっている。 1714年にジャワのコーヒーノキがフランスに寄贈され、パリの王立植物園の温室に植えられる。1723年に西インド諸島のマルティニーク島の軍人ガブリエル・マテュー・ドゥ・クリューの嘆願により、パリのコーヒーノキの1本がマルティニーク島に移植されることになる。コーヒーノキはガラスケースに入れられて慎重に移送され、海賊の襲撃や暴風雨、凪などの危機に遭いながら、コーヒーノキは無事にマルティニーク島に辿り着いた。1730年に西インド産のコーヒーがフランスに輸出され、余剰分は地中海東部に出荷された。ヨーロッパ・アラブ世界に逆輸入された西インド産の安価なコーヒーは、高価なイエメン産のコーヒーに取って代わって市場で中心的な位置を占めるようになった。 インド洋に浮かぶフランス領のブルボン島(レユニオン島)は、ブルボン種(ボルボン種)のコーヒーで知られている。レユニオン島では1711年に島に自生するコーヒーノキ(マロン・コーヒー)が発見されたが島に自生するコーヒーは苦味が強く、2年ごとにしか収穫できないため、マロン・コーヒーと並行してモカから輸入された苗木が栽培された。1715年から栽培が開始されたモカの苗木は、現地で栽培されていたアラビカ種(ティピカ種)の突然変異種と考えられている。島で生産されたブルボン種のコーヒーは南アメリカにも伝播するが、イギリス東インド会社が出荷するコーヒー、ヨーロッパに近い位置にあるフランス領西インド諸島で生産されたコーヒーに押し出されていく。1805年のサイクロンで島のコーヒー・プランテーションが壊滅した後、1810年にルロイ種が島に持ち込まれる。
※この「ヨーロッパ各国によるコーヒー栽培の開始」の解説は、「コーヒーの歴史」の解説の一部です。
「ヨーロッパ各国によるコーヒー栽培の開始」を含む「コーヒーの歴史」の記事については、「コーヒーの歴史」の概要を参照ください。
- ヨーロッパ各国によるコーヒー栽培の開始のページへのリンク