ミューズにしてファム・ファタルとは? わかりやすく解説

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ミューズにしてファム・ファタル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 05:51 UTC 版)

アルマ・マーラー」の記事における「ミューズにしてファム・ファタル」の解説

アルマ画家エミール・ヤーコプ・シンドラー1842年 - 1892年)の娘としてウィーン生まれる。アルマ13歳のときに父が亡くなり、母は父の弟子カール・モル英語版)(1861年 - 1945年)と再婚する。彼女は実父愛した反面養父愛せなかったという。裕福な中流の家で、母親芸術家サロン主宰者であったアルマ少女時代から絵画文学哲学作曲才能発揮し美貌多く男性芸術家をとりこにした。世紀の変わり目に、当時新進気鋭の作曲家アレクサンダー・ツェムリンスキー入門し歌曲作曲開始するツェムリンスキーアルマ恋い焦がれていたというが、実際に恋愛関係にあったか否か定かではないツェムリンスキーより前には、グスタフ・クリムトとも深い仲にあったという。 1900年11月10日に、アルマグスタフ・マーラー知り合うアルマ当初マーラー嫌っていたという。アルマその時多く男性信奉者らに囲まれており引く手あまたであった一方マーラーには、女優との恋愛の噂やリハーサルでの不遜な態度という悪評立っていた。ところがアルママーラーからの求愛応えて結婚承諾するその際アルマ一族友人らからの反対大きかったマーラー田舎育ちユダヤ人、しかも多額借金抱えており年齢差大きかった。またマーラー自身アルマ献身的であることを求め婚約時から彼女自身作曲することを禁止するなど命令的な態度取った婚約しばらくの間秘密にされた。 当初ウィーン楽壇将来を担う芸術家支えることに愛を見いだしたアルマだったが、マーラー借金育児互い交友関係合わないことなどが彼女の心労要因となる。さらにアルママーラー楽譜清書始め、夫の仕事手伝う役を買って出るものの、彼女の献身的な態度マーラーが常に尊重した訳ではなかったという。 夫婦の中が冷えきっていた折、アルマ建築家ヴァルター・グロピウス出会い求愛される。彼女自身グロピウス惹かれていたという。晩年マーラーアルマとの関係修復望んでフロイト診察受けたというエピソードは有名である。さらにマーラーは、アルマ関心取り戻そうとして、彼女がかつてツェムリンスキーのもとで作曲した歌曲を、自らの契約先であるウニヴェルザール出版社持ち込んだ1911年未亡人となった後、画家オスカー・ココシュカらとも関係を深めながらも(ココシュカ油彩画風の花嫁」は、アルマとの性交渉赤裸々描いた作品として有名である)、グロピウス再婚したグロピウスとの間にもうけたマノン聡明美少女だったが、虚弱夭逝した。マノンのことをことのほかかわいがったのが作曲家アルバン・ベルクであり、ベルクマノン死後に『ある天使追想に』の献辞付したヴァイオリン協奏曲作曲した。ここで「天使」と呼ばれているのがマノンほかならないベルクはまだ生家裕福だった思春期使用人女性に娘を身ごもらせた過去があり、その女性や娘と引き離された上、結婚相手女性とは幸せ家庭をつくることができなかった(アルマは、晩年ベルク不倫の恋をとりもち後々までベルク未亡人恨み買っている)。そのことからベルクは、マノンをわが子と重ね合わせていたとされるグロピウスとの関係が破綻した後、アルマ年少フランツ・ヴェルフェル再々婚した。ヴェルフェルはイタリア・オペラ、とりわけヴェルディにしか興味がなく、同時代音楽を大抵は罵倒しており、音楽的にアルマ共通する点がほとんどなかった。 1938年オーストリアナチス・ドイツ併合されると、ナチの手逃れるために1940年まで南フランスサナリシュルメル英語版)に滞在1940年ナチス・ドイツによるフランス占領が始まるとピレネー山脈徒歩超えてスペイン経由してポルトガル逃れ10月アメリカニューヨークへ辿り着いたその後ロサンゼルス定住したアメリカ亡命後、とくにロサンゼルス時代アルマは、自ら音楽サロン主宰してストラヴィンスキーシェーンベルクコルンゴルトなど、ヨーロッパからの多く亡命作曲家出入り重ねたコルンゴルトストラヴィンスキーの前でシェーンベルクピアノ曲暗譜通して演奏してみせ、驚かせたというエピソードは、アルマサロンにおいての出来事である。 ちなみにマーラーとの間にもうけた2人の娘のうち、長女マリア・アンナ幼くしてこの世去ったが、次女のアンナ・ユスティーネは後に彫刻家として活躍した。彼女も母と同じく多彩な恋愛遍歴知られ生涯に5回結婚している。2人目の夫は、アルマ指示マーラー交響曲第10番補筆行った作曲家エルンスト・クルシェネクである。第二次世界大戦中母親アメリカ亡命選んだに対して、アンナ・ユスティーネはイギリス亡命選んだ

※この「ミューズにしてファム・ファタル」の解説は、「アルマ・マーラー」の解説の一部です。
「ミューズにしてファム・ファタル」を含む「アルマ・マーラー」の記事については、「アルマ・マーラー」の概要を参照ください。

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