マーフリーズボロおよび戦闘の作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/12 17:12 UTC 版)
「ストーンズリバーの戦い」の記事における「マーフリーズボロおよび戦闘の作戦」の解説
マーフリーズボロはストーンズ川渓谷の小さな町であり、元はアメリカ独立戦争時の大佐ハーディ・マーフリーに因んで名付けられた州都だった。南北戦争を通じて強い南軍寄りの感情の中心であり、ブラッグとその軍隊は暖かく迎えられ、12月1ヶ月間歓待された。豊かな農業地帯に位置しており、ブラッグはここで軍隊の食料を調達し、北軍がチャタヌーガに進行する可能性があるのをここで塞ごうと考えていた。ハーディは後に「戦場は守る側にとって特に利点はなかった」と記した。それでもブラッグは別に動くことを躊躇し、例えば南のより守りに適したダック川渓谷や、北のスチュワート・クリークにも行かなかった。スチュワート・クリークについてはローズクランズがブラッグの守る場所だと考えていた。ブラッグは、テネシーの土地をどこも北軍の支配下に置いてはいけないという政治的要求に敏感であり、ストーンズ川に跨る政治的影響力のある町の北西、比較的平らな地域を選んだ。この地域の一部、特にナッシュビル・パイク道路とナッシュビル・アンド・チャタヌーガ鉄道が交差する点近くは、丈は低いが濃密な杉林が特徴となっており、バージニア州の荒野の戦いよりも歩兵が通過しにくい場所となっていた。低い石灰岩の露頭が歯並びのような細い亀裂で分かれており荷馬車や大砲の移動には障害となった。ハーディ軍団は当初、西方約20マイル (32 km)のトライユーヌに配置され、ポーク軍団は川の西岸に、ハーディ軍団のうちジョン・ブレッキンリッジ少将の指揮する分遣師団が川の東にある低い丘に配された。どの部隊も野戦防塞を造るよう命令されなかった。 12月29日の夜にローズクランズがマーフリーズボロに到着した時までに、テネシー軍は1ヶ月間もその地域に宿営していた。夜陰の中でローズクランズ軍はナッシュビル・ターンパイクに沿って配置を終え、翌朝、ローズクランズ軍は総勢約45,000名、対するブラッグ軍は総勢約38,000名となった。勝敗の可能性はその数字が示すよりも接近していた。ブラッグには分遣しているが協働行動を取りながら北軍の戦線の背後深く襲撃しているフォレストとモーガンの騎兵隊がおり、またウィーラーの騎兵隊はヒット・アンド・ラン戦法で北軍の歩みを遅らせるという利点があった(ローズクランズがナッシュビルを離れることを躊躇したことの要因の一部は、南軍の騎兵隊に比較してその騎兵隊の経験が不足していることがあった)。12月29日、ウィーラーとその2,500名の部隊は北軍の背後に完全に回り込み、物資用荷馬車を破壊し、ローズクランズ輜重隊の予備弾薬を捕獲した。このとき捕獲したのは幌馬車隊4編成と1,000名の兵士だった。 12月30日、北軍はマーフリーズボロの北西2マイル (3 km)の線に入った。両軍は南西から北東に4マイル (6 km)にわたって並行に対峙した。当初ブラッグ軍の左翼は弱く、ローズクランズ軍が到着したときに攻撃して居ればそこから回り込んで直接マーフリーズボロの町に入れたのだが、北軍が進行している間南軍の騎兵隊が巧みに遮蔽していたので、ローズクランズはブラッグ軍の配置を良く掴んでいなかった。前年の第一次ブルランの戦いと似たようなやり方で、両軍の指揮官は翌日のために似たような作戦を考えていた。つまり敵の右翼を取り囲んでその背後に回り、そこを本隊から切り離すという作戦だった。両軍の作戦が同じだったので、勝利は最初に攻撃した方に行く可能性があった。ローズクランズは部隊に朝食後に攻撃を始めるよう準備するという命令を出したが、ブラッグは夜明けとともに攻撃することを命じた。 ブラッグ軍はレオニダス・ポーク軍団が川の西岸に、ウィリアム・J・ハーディ軍団が東岸に配置された。ブラッグはローズクランズ軍が12月30日に攻撃してくると予測したが、その日に攻撃は起こらなかった。その作戦はハーディ軍団とジョン・A・ウォートンの騎兵隊を駆って北軍の後方に深く入らせるということだった。翌朝の攻撃のためにハーディ軍団には川を渉って左翼に付かせることを始めた。このことでブレッキンリッジ師団は川の東岸の高台に予備隊として置かれた。 ローズクランズの作戦ではクリッテンデン隊に川を渉らせ、東岸の高台を攻撃させることであり、そこは南軍の戦線全体を砲撃できる優れた砲台になると思われた。南軍左翼のブレッキンリッジに向かい合うクリッテンデンは、これら部隊の動きについてマクック(北軍右翼)に注意することを怠った。マクックは、翌日の攻撃がクリッテンデンによる主力攻撃で始まるものと予測しており、その陣地に多くの篝火を焚いて、右翼にいるその勢力について南軍を欺くことを期待し、またその側面が障害物(近くのオーバーオール・クリーク)まで届いていないように偽装した。中央のトーマスは制限された攻撃を行い、クリッテンデン隊が回り込む中心点となるよう命令されていた。 両軍はわずか700ヤード (630 m)離れただけで露営し、その音楽隊が翌日の出来事の死には至らない予告となった音楽の戦いを始めた。北軍の音楽隊は「ヤンキードゥードゥル」と「ヘイル、コロンビア」を演奏し、南軍側は「ディキシー」と「ボニー・ブルー・フラッグ」で答えた。最後に片方が「ホーム・スウィート・ホーム」を演奏するともう一方も和した。北部と南部の何千という兵士達が戦線に並んだままこの感傷的な歌を共に歌った。
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