マーキュリー・セブン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 04:05 UTC 版)
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マーキュリー・セブン(Mercury Seven)は、アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行「マーキュリー計画」のため、1959年4月9日にアメリカ航空宇宙局(NASA)によって選抜された7名の宇宙飛行士のことである[1]。オリジナル・セブンや第1期宇宙飛行士(Astronaut Group 1)などの呼称が用いられることもある。NASAの20世紀のすべての種類の有人宇宙船(マーキュリー、ジェミニ、アポロ、スペースシャトル)にメンバーのいずれかが搭乗したことがある。
メンバーの活躍は映画『ライトスタッフ』にも描かれている。
メンバーの選抜
NASAが当初空中ブランコの曲芸師を採用することを検討していたように、メンバーには柔軟かつ体力のある人物が求められていた。当時のアイゼンハワー大統領は、候補者は大学を卒業したパイロットでなければならないとした。体格の面においては、マーキュリー宇宙船のカプセルの大きさによる制約から、候補者は身長5フィート11インチ(180cm)以下、体重180ポンド(82kg)以下でなければならなかった。
NASAは69名の候補者を選び、より詳細な検査を行うため彼らをワシントンD.C.へ連れて行った。カプセルに乗るには身長が高過ぎるという理由で6名がまず除外された。33名が検査の第一段階で失格となった。4名は、体位変換台、ウォーキングマシン、氷水に足を長時間浸すといった試験に参加することを拒否した。検査の第二段階で更に8名が脱落した。残る18名の中から7名が選ばれ,更に一名を脱落させる予定であったが、三軍のバランスを考慮(空軍・海軍出身各3名、海兵隊出身1名)した結果、7名全てを採用する事としてNASA初の宇宙飛行士が選ばれることになった。
メンバー
名前 | 出身 | 生没年 | ミッション | 特記事項 |
---|---|---|---|---|
アラン・シェパード | 海軍 | 1923年 - 1998年 | マーキュリー・レッドストーン3号(1961年) アポロ14号(1971年) |
アメリカ初の有人宇宙飛行(弾道飛行)を行った 船長を務めたアポロ14号では人類として月面に立った5人目の存在となった |
ガス・グリソム | 空軍 | 1926年 - 1967年 | マーキュリー・レッドストーン4号(1961年) ジェミニ3号(1965年) アポロ1号(1967年) |
アメリカ2番目の有人宇宙飛行経験者 アポロ1号の訓練中に発生した火災事故により亡くなった |
ジョン・グレン | 海兵隊 | 1921年 - 2016年 | マーキュリー・アトラス6号(1962年) STS-95(1998年) |
アメリカ初の地球周回飛行を行った STS-95では77歳で宇宙を飛行し、宇宙飛行の最年長記録となった |
スコット・カーペンター | 海軍 | 1925年 - 2013年 | マーキュリー・アトラス7号(1962年) | マーキュリー・アトラス7号搭乗時には一時、生還が絶望視されるも帰還に成功 |
ウォルター・シラー | 海軍 | 1923年 - 2007年 | マーキュリー・アトラス8号(1962年) ジェミニ6-A号(1965年) アポロ7号(1968年) |
マーキュリー計画、ジェミニ計画、アポロ計画の全てで、地球周回軌道以上の宇宙飛行を行なった唯一の飛行士 |
ゴードン・クーパー | 空軍 | 1927年 - 2004年 | マーキュリー・アトラス9号(1963年) ジェミニ5号(1965年) |
ジェミニ5号搭乗時に、190時間55分の間に地球を120周するという飛行記録を樹立 |
ディーク・スレイトン | 空軍 | 1924年 - 1993年 | アポロ・ソユーズテスト(1975年) | 選抜後に心臓に病気が見つかり、マーキュリー計画では飛行できなかったが、その後克服しアポロ・ソユーズテストで飛行した |
脚注
- ^ “The 40th Anniversary of the Mercury 7”. NASA. 2017年9月24日閲覧。
関連項目
- サンダーバード (登場人物名の由来)
マーキュリー・セブン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 04:26 UTC 版)
「ドナルド・スレイトン」の記事における「マーキュリー・セブン」の解説
1959年1月、スレイトンは、アメリカ初の有人宇宙飛行計画であるNASAのマーキュリー計画の宇宙飛行士の候補者の一人に選ばれた。最初は宇宙飛行には興味がなかったが、宇宙飛行士の選考を受けることに同意した。ワシントンD.C.のカッツ・マディソン邸(英語版)に置かれた臨時のNASA本部で一次面接を受けた後、スレイトンはニューメキシコ州アルバカーキのラブレース医院で、後に宇宙飛行士となるスコット・カーペンター、ジム・ラヴェルらとともに心理的・肉体的テストを受けた。1959年4月2日、スレイトンは宇宙飛行士に選ばれたことを知らされた。スレイトンは、家族とともにエドワーズ空軍基地からフォート・ユースティス近くの住宅地に引っ越した。近くには同じマーキュリー・セブンの仲間であるガス・グリソムやウォルター・シラーの家もあった:66, 69–75。 スレイトンはNASAに入った後、コンベア社のアトラス LV-3B(英語版)ロケットの開発に配属された:98。1959年、高Gトレーニング(英語版)中に心電図検査を受けたところ、心臓の動きが不規則であることが判明した。ブルックス空軍基地(英語版)で精密検査を受けた結果、特発性(英語版)心房細動と診断されたが、宇宙飛行には支障なしと判断された:78–79, 85–86。マーキュリー・アトラス4号の軌道飛行では、バミューダの追跡基地で働いた。スレイトンは、アメリカで2回目の有人軌道ミッションであるマーキュリー・アトラス7号に選ばれ、識別名は「デルタ7」とするつもりだった:104–105, 110。1962年初頭、NASA長官のジェームズ・ウェッブは、スレイトンの心房細動に関する調査を開始した。マーキュリー・アトラス7号の打ち上げの2か月前の1962年3月15日、マーキュリー・アトラス7号でのスレイトンの飛行は中止となり、代わりにスコット・カーペンターが飛行することになった:111–114。当初は、マーキュリー計画の他のミッションで飛行する可能性は残されており、スレイトンは定期的な運動と禁酒で健康状態を改善しようとしていた。その後、NASA上層部は、スレイトンが心房細動のリスクを抱えているとして、スレイトンの宇宙飛行は行わないことを決定した:115–116。フライトドクターは、スレイトンが先天性疾患を患っているかどうかを確認するために心臓カテーテル検査を勧めたが、NASA上層部は手術のリスクを考慮してこの提案を拒否した。
※この「マーキュリー・セブン」の解説は、「ドナルド・スレイトン」の解説の一部です。
「マーキュリー・セブン」を含む「ドナルド・スレイトン」の記事については、「ドナルド・スレイトン」の概要を参照ください。
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