ボスポラスの戦い
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「パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の記事における「ボスポラスの戦い」の解説
詳細は「ボスポラス海峡封鎖(ロシア語版)」を参照 1915年3月14日には史上初のボスポラス砲撃を行うために主力艦隊が出撃したが、「パーミャチ・メルクーリヤ」と「カグール」はこれに先立つ3月13日にセヴァストーポリを出撃し、ブルガリアならびにルーマニア沿海域での偵察任務を遂行した。両艦は、3月15日に主力艦隊に合流した。3月17日には、「パーミャチ・メルクーリヤ」は艦隊水雷艇「ズヴォーンキイ」、「ゾールキイ」、「ザヴェートヌイ」とともにコズルを砲撃した。その後、「パーミャチ・メルクーリヤ」は 5 機の水上機を搭載した水上機輸送艦「ニコライ1世」を伴ってゾングルダクを砲撃した。 3月20日、オスマン帝国の巡洋艦「ミディッリ」はセヴァストーポリ沖で「ヤウズ・スルタン・セリム」と合流すべしという指示を受け、スィノプ湾から出撃した。しかし、オスマン帝国の計画は失敗した。両艦の合流を支援するためにオデッサを砲撃して牽制する手はずになっていた巡洋艦「メジディイェ」が触雷のため味方によって撃沈され、計画は中止となったのである。これを受けて帰港しようとする「ヤウズ・スルタン・セリム」ならびに「ミディッリ」はその途上、砂糖を輸送中であったロシアの蒸気船「ヴォストーチュナヤ・ズヴェズダー」と「プロヴィデーント」を沈めたが、逆に水上機輸送艦「ニコライ1世」から飛び立った水上偵察機によって発見されてしまった。発見の報を受けて、3月21日には戦列艦 5 隻と巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」ならびに「カグール」からなる黒海艦隊主力と海洋掃海艦 4 隻、補助巡洋艦 1 隻がボスポラス方面へ出撃した。第 1・4・5 艦隊水雷艇隊の 8 隻の艦隊水雷艇はそれより前に敵艦を求めて出撃していた。「ミディッリ」は、これを撃退しようと猛反撃を加えた。「パーミャチ・メルクーリヤ」が駆けつけるのを見て「ヤウズ・スルタン・セリム」は回頭、距離 130 鏈から巡洋艦に向けて主砲の火蓋を切った。しかし、弾丸は「パーミャチ・メルクーリヤ」まで達しなかった。ロシア艦隊は、砲熕ならびに魚雷兵装を用いてオスマン帝国艦を攻撃した。その間に接近するロシアの主力艦隊を見つけた「ヤウズ・スルタン・セリム」は、今度は戦列艦へ向けて、射程外から砲撃を開始した。そして、南方へ逃走を開始した。「ミディッリ」はロシア艦隊から距離 100 鏈まで接近したが、「パンテレイモン」が砲撃を開始したため全速で南方へ逃げ出した。ロシア艦隊は掃海艦をセヴァストーポリへ帰し、日暮れまで敵艦隊を追撃した。「ノヴィーク」級艦隊水雷艇は夜間も「ヤウズ・スルタン・セリム」の捜索を続けたが、「ヤウズ・スルタン・セリム」はボスポラス海峡へ逃げ込み、無事に母港イスタンブールへ帰陣した。 4月18日にもボスポラス砲撃を行う主力艦隊に随伴してボスポラス海峡へ向かった。艦隊は、戦列艦 5 隻と巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」と「カグール」、通報船「アルマース」、水上機輸送船「ニコライ1世」、艦隊水雷艇 8 隻、海洋掃海艦 4 隻からなっていた。「パーミャチ・メルクーリヤ」は「カグール」とともに石炭地区の港湾を偵察し、発見したオスマン帝国船を殲滅するよう命を受けた。4月19日には、両艦はコズル地区に停泊している蒸気船「ネカト」を発見し、砲撃を加えて撃沈した。また、洋上で帆船 1 隻を撃沈した。日暮れに合わせて、両巡洋艦は艦隊に合流した。4月21日朝方には、艦隊はルメリア沿海域に接近した。戦列艦「ロスチスラフ」、巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」ならびに通報船「アルマース」は、掃海艦に先導されて沿岸部に接近し、イーネアダ地区を砲撃した。この作戦の中で「パーミャチ・メルクーリヤ」は「カグール」や艦隊水雷艇と協力してオスマン帝国の海上航路を破壊し、石炭の輸送システムを崩壊させた。艦隊は、4月22日に帰港した。 一方、オスマン帝国側では主力の「ヤウズ・スルタン・セリム」が1914年12月13日にロシア側の機雷によって損傷を負い、オスマン帝国内に使用できる船渠がなかったがために修理を受けられない状況が続いていた。「ヤウズ・スルタン・セリム」はそれでも幾度となく黒海上への出撃を繰り返し、戦果も挙げた。修理工事は1915年4月18日にようやく完了し、巡洋艦「ミディッリ」と「ハミディイェ」を従えて出撃した。一方、「ヤウズ・スルタン・セリム」の完全復帰を知らないロシア艦隊は、4月24日に従前どおりの仕度で、すでに日課となりつつあるセヴァストーポリからボスポラス海峡口へ向けて出港した。通商破壊を繰り返すロシア艦隊を撃破するため、4月25日、スション提督に代わってリヒャルト・アッカーマン海軍大佐が指揮を採る「ヤウズ・スルタン・セリム」に出撃命令が下った。 4月26日には、「パーミャチ・メルクーリヤ」はエレーリを襲い、 2 隻の蒸気船と 27 隻の帆船を撃沈した。これと並行して艦隊水雷艇も港湾砲撃と通商破壊を行った。この攻撃的な作戦行動の結果、開戦以降オスマン帝国は保有した輸送船の 3 分の 1 を喪失した。 一方、「ヤウズ・スルタン・セリム」は駆逐艦「ヌムーネイ・ハミイェト(トルコ語版)」からの通報でロシア艦隊を撃滅すべく出撃した。何も知らないエベルガールト提督は、ボスポラス堡塁砲撃に備えて艦隊を分散させた。これにより、ロシア艦隊は強力な「ヤウズ・スルタン・セリム」によって容易に個艦撃破され得る隊形になってしまった。 N・S・プチャーチン海軍少将の指揮の下、戦列艦「トリー・スヴャチーチェリャ」と「パンテレイモン」が砲撃を行うあいだ、「パーミャチ・メルクーリヤ」と「カグール」はいつもどおり洋上で警戒任務についていた。 7 時近く、石炭輸送帆船を撃沈した「パーミャチ・メルクーリヤ」は洋上に「大きな煙」を発見した。「ヤウズ・スルタン・セリム」である。ポクローフスキイ海軍少将は速やかに恐るべき「おじ」の発見をエベルガールト司令官に通報し、自艦を旗艦「エフスターフィイ」との合流に向けて走り出させた。 自ら散り散りになっていたロシア艦隊は、終結する時間を稼ぐことができなかった。やむをえずプチャーチン提督が「トリー・スヴャチーチェリャ」と「パンテレイモン」の撤収を急がせる一方、沖合いに待機していた旗艦「エフスターフィイ」と「イオアン・ズラトウースト」は7時35分、「ロスチスラフ」をかばって 2 隻のみで「ヤウズ・スルタン・セリム」への砲撃を開始した。「ヤウズ・スルタン・セリム」の砲術は巧みであったが、ロシア艦にとっては幸運なことに、命中弾は出なかった。双方有効打が得られないまま戦闘が長期化する中で、駆け戻った「パンテレイモン」が戦闘に加わった。「ヤウズ・スルタン・セリム」は命中弾を得、アッカーマン大佐は撤収を決意した。ロシア艦隊は、4月26日に帰港した。
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