ボスポラスの戦いとは? わかりやすく解説

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ボスポラスの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:11 UTC 版)

パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の記事における「ボスポラスの戦い」の解説

詳細は「ボスポラス海峡封鎖ロシア語版)」を参照 1915年3月14日には史上初のボスポラス砲撃を行うために主力艦隊が出撃したが、「パーミャチ・メルクーリヤ」と「カグール」はこれに先立つ3月13日セヴァストーポリ出撃し、ブルガリアならびにルーマニア沿海域での偵察任務遂行した。両艦は、3月15日主力艦隊に合流した3月17日には、「パーミャチ・メルクーリヤ」艦隊水雷艇「ズヴォーンキイ」、「ゾールキイ」、「ザヴェートヌイ」とともにコズルを砲撃したその後「パーミャチ・メルクーリヤ」は 5 機の水上機搭載した水上機輸送艦ニコライ1世」を伴ってゾングルダク砲撃した3月20日オスマン帝国巡洋艦「ミディッリ」はセヴァストーポリ沖で「ヤウズ・スルタン・セリム」と合流すべしという指示を受け、スィノプ湾から出撃した。しかし、オスマン帝国計画失敗した。両艦の合流支援するためにオデッサ砲撃して牽制する手はずになっていた巡洋艦「メジディイェ」が触雷のため味方によって撃沈され、計画中止となったのである。これを受けて帰港しようとするヤウズ・スルタン・セリムならびに「ミディッリ」はその途上砂糖輸送であったロシア蒸気船「ヴォストーチュナヤ・ズヴェズダー」と「プロヴィデーント」を沈めたが、逆に水上機輸送艦ニコライ1世」から飛び立った水上偵察機によって発見されてしまった。発見の報を受けて3月21日には戦列艦 5 隻と巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」ならびにカグールからなる黒海艦隊主力海洋掃海艦 4 隻、補助巡洋艦 1 隻がボスポラス方面出撃した。第 1・4・5 艦隊水雷艇隊の 8 隻の艦隊水雷艇それより前に敵艦求めて出撃していた。「ミディッリ」は、これを撃退しようと猛反撃加えた「パーミャチ・メルクーリヤ」駆けつけるのを見てヤウズ・スルタン・セリム」は回頭、距離 130 鏈から巡洋艦向けて主砲火蓋を切った。しかし、弾丸「パーミャチ・メルクーリヤ」まで達しなかった。ロシア艦隊は、砲熕ならびに魚雷兵装用いてオスマン帝国艦を攻撃したその間接近するロシア主力艦隊を見つけたヤウズ・スルタン・セリム」は、今度戦列艦向けて射程外から砲撃開始した。そして、南方逃走開始した。「ミディッリ」はロシア艦隊から距離 100 鏈まで接近したが、「パンテレイモン」が砲撃開始したため全速南方逃げ出したロシア艦隊掃海艦セヴァストーポリ帰し日暮れまで敵艦隊を追撃した。「ノヴィーク」級艦隊水雷艇夜間も「ヤウズ・スルタン・セリム」の捜索続けたが、「ヤウズ・スルタン・セリム」はボスポラス海峡逃げ込み無事に母港イスタンブール帰陣した。 4月18日にもボスポラス砲撃を行う主力艦隊に随伴してボスポラス海峡向かった艦隊は、戦列艦 5 隻と巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」と「カグール」、通報船「アルマース」、水上機輸送船ニコライ1世」、艦隊水雷艇 8 隻、海洋掃海艦 4 隻からなっていた。「パーミャチ・メルクーリヤ」は「カグールとともに石炭地区港湾偵察し発見したオスマン帝国船を殲滅するよう命を受けた4月19日には、両艦はコズル地区停泊している蒸気船「ネカト」を発見し砲撃加えて撃沈したまた、洋上帆船 1 隻を撃沈した日暮れ合わせて、両巡洋艦艦隊合流した4月21日朝方には、艦隊ルメリア沿海域に接近した戦列艦ロスチスラフ」、巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」ならびに通報船「アルマース」は、掃海艦先導され沿岸部接近し、イーネアダ地区砲撃した。この作戦の中で「パーミャチ・メルクーリヤ」は「カグール」や艦隊水雷艇協力してオスマン帝国海上航路破壊し石炭輸送システム崩壊させた。艦隊は、4月22日帰港した一方オスマン帝国側では主力の「ヤウズ・スルタン・セリム」が1914年12月13日ロシア側の機雷によって損傷負いオスマン帝国内に使用できる船渠がなかったがために修理受けられない状況続いていた。「ヤウズ・スルタン・セリム」はそれでも幾度となく黒海上への出撃繰り返し戦果挙げた修理工事1915年4月18日にようやく完了し巡洋艦「ミディッリ」と「ハミディイェ」を従えて出撃した。一方、「ヤウズ・スルタン・セリム」の完全復帰知らないロシア艦隊は、4月24日従前どおりの仕度で、すでに日課となりつつあるセヴァストーポリからボスポラス海峡口へ向けて出港した通商破壊繰り返すロシア艦隊撃破するため、4月25日、スション提督に代わってリヒャルト・アッカーマン海軍大佐指揮を採る「ヤウズ・スルタン・セリム」に出撃命令下った4月26日には、「パーミャチ・メルクーリヤ」はエレーリを襲い、 2 隻の蒸気船27 隻の帆船撃沈した。これと並行して艦隊水雷艇港湾砲撃通商破壊行った。この攻撃的な作戦行動結果開戦以降オスマン帝国保有した輸送船3 分の 1喪失した一方、「ヤウズ・スルタン・セリム」は駆逐艦「ヌムーネイ・ハミイェト(トルコ語版)」からの通報ロシア艦隊撃滅すべく出撃した。何も知らないエベルガールト提督は、ボスポラス堡塁砲撃備えて艦隊分散させた。これにより、ロシア艦隊強力なヤウズ・スルタン・セリム」によって容易に個艦撃破され得る隊形になってしまった。 N・Sプチャーチン海軍少将指揮の下、戦列艦「トリー・スヴャチーチェリャ」と「パンテレイモン」が砲撃を行うあいだ、「パーミャチ・メルクーリヤ」と「カグール」はいつもどおり洋上警戒任務についていた。 7 時近く石炭輸送帆船撃沈した「パーミャチ・メルクーリヤ」洋上に「大きな煙」を発見した。「ヤウズ・スルタン・セリム」である。ポクローフスキイ海軍少将速やかに恐るべき「おじ」の発見をエベルガールト司令官通報し、自艦を旗艦「エフスターフィイ」との合流向けて走り出させた。 自ら散り散りになっていたロシア艦隊は、終結する時間を稼ぐことができなかった。やむをえずプチャーチン提督が「トリー・スヴャチーチェリャ」と「パンテレイモン」の撤収急がせる一方沖合い待機していた旗艦「エフスターフィイ」と「イオアン・ズラトウースト」は7時35分、「ロスチスラフ」をかばって 2 隻のみで「ヤウズ・スルタン・セリム」への砲撃開始した。「ヤウズ・スルタン・セリム」の砲術巧みであったが、ロシア艦にとっては幸運なことに、命中弾は出なかった。双方有効打が得られないまま戦闘長期化する中で、駆け戻ったパンテレイモン」が戦闘加わった。「ヤウズ・スルタン・セリム」は命中弾を得、アッカーマン大佐撤収決意したロシア艦隊は、4月26日帰港した

※この「ボスポラスの戦い」の解説は、「パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の解説の一部です。
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