プロ野球監督・コーチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:33 UTC 版)
長年野球選手として鍛えた勘の鋭さと、理論的な研究法はこの後、下半身先行のダウンスイングを理論的根拠とした新田理論(後述)の提唱に至る。野球の動作について初めて本格的に研究した人物が新田と言われる、新田の指導を受けた最初の野球選手が小鶴誠で、小鶴は1949年に首位打者、1950年には161打点、143得点、376塁打という記録を打ち立てた。新田が元ゴルファーであったこともあり、小鶴の打法は「ゴルフ・スイング」と呼ばれ当時の流行語になった。他に"新田式打法"とも"近代打法"ともいわれ近藤唯之は、これを"合理的打法"として、この理論ほど完成された理論はないと評価している。反面、小鶴や、同様に新田理論を取り入れた三村勲も一時好成績を上げたが腰を痛め選手寿命を縮めた。 プロ野球が二リーグに分裂した1950年、松竹のキャンプに臨時コーチとして招かれる。松竹はこの年、水爆打線を擁し記録的な勝数でセントラル・リーグ優勝を果たした。同年、女子プロ野球の指導も行う。同年オフには小西得郎の辞任で1951年、同チーム監督に就任。小西と新田は「野球時代」(野球時代社、1948年-1949年)という雑誌の編集で知り合いであった。理論派ではあったが、監督としては不適格であったとされ、大島信雄・岩本義行を除いた他の選手には背を向かれて、チームは次第に弱体化し同年4位に終わる。1952年は投打とも振るわず最下位に沈み、更に勝率.288と3割を下回ってリーグの処罰の対象となったことと、球団に出資していた繊維商社の田村駒が経営悪化で撤退したことから、1953年に大洋と合併し球団は消滅。完全試合の"惜しい"エピソードとして有名な1952年6月15日、巨人の別所毅彦に9回2死まで抑えられたが、投手の打順で「ピッチャーよりはマシじゃろ」とブルペン捕手の神崎安隆を代打に送り別所の夢を砕いた。1953年は合併した大洋の二軍監督を務めた。巨人が初めてコーチ制を採用した1954年、読売新聞・安田庄司副社長に招かれて三宅大輔ヘッドコーチと共に巨人軍二軍コーチに就任。いずれも水原茂監督より先輩で、水原がリーダーシップを執れるか懸念された。 1年間のみイースタン・リーグ戦が行われた1955年には二軍監督として指揮を執る。1956年には技術顧問、1957年には再び二軍監督を務めた。ゴルフを通じて親しくなった品川主計球団代表は、新田の野球理論の解明に心打たれた、と言われ1957年オフの騒動、通称"水原あやまれ事件"の切っ掛けとなり、川上哲治監督誕生を引き起こしたとされる。『理論を平明に説いてエネルギーの消耗を防ぐことこそ近代野球』とする新田理論には品川、千葉茂が賛同、『若い者は甘やかすと駄目。鍛錬また鍛錬だ。そこに名手が生まれる』とする水原の考えには、藤本英雄、内堀保らが同調して対立した。1958年から1959年まで二軍ヘッドコーチを務め、1960年には千葉が監督を務める近鉄にヘッドコーチとして移籍し、技術顧問となった1961年退団。1976年シーズン途中からはヤクルトでアドバイザーを務め、週に1、2回も神宮の室内練習場に現れて、一部の選手に打撃を指導。特に船田和英が熱心に教わり、バットが体に巻きつくようなスイングに変わった。いわゆるインサイドアウトのスイングを自分のものにした船田は同年に3割を打ち、長打力も上がるなどいきなり打撃が向上し、同年にはカムバック賞を受賞。初優勝した1978年には広岡達朗監督の要請で臨時コーチを務めた。
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