プロジェクト・クレステッドアイス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 15:27 UTC 版)
「チューレ空軍基地米軍機墜落事故」の記事における「プロジェクト・クレステッドアイス」の解説
爆発と火災の結果、墜落により破壊された多くの部品が1km×3kmの範囲に飛散した。爆弾倉の一部は墜落地点から3.2km北に離れた場所で発見され、機体の破壊は墜落前から始まっていたことを示していた。墜落地点の氷は崩壊し、一時的に直径およそ50mの範囲で海面が露出した。その地域の氷盤は散乱し、ひっくり返り、そして押し出された。墜落地点の南、120m×670mにわたり機体から漏れた燃料で氷床が黒ずんだ — この区域はJP-4(ジェット燃料)と放射性物質で高度に汚染された。これら物質には、プルトニウム、ウラン、アメリシウム、およびチタンが含まれていた。この地域のプルトニウム濃度は380g/m2を記録した。 アメリカおよびデンマーク当局は直ちに、残骸の除去および環境被害阻止のための「プロジェクト・クレステッドアイス」(非公式に「ドクター・フリーズラブ」と呼ばれた)を発動した。寒く、暗い北極の冬だったが、春になり海氷が溶けて汚染物質が海中に堆積する前に除去作業を完了するよう、多大なプレッシャーがかかった。 ベースキャンプ(アメリカ空軍のリチャード・オーヴァートン・ハンジカーが担当となってから「キャンプ・ハンジカー」と名づけられた)が事故現場に建設された。キャンプには、ヘリポート、イグルー、発電機、および通信設備が設置された。墜落から4日後の1月25日、アルファ粒子汚染が観測された1.6km×4.8kmの区域を零位線と定められた。この線はそれ以降、人や車両の汚染除去管理に使われた。チューレから現場までの氷上に道路も建設された。最初の道路が酷使されたことから、続いて2本目の(より直行する)道路が作られた。キャンプには後に、プレハブの建屋、2つのそりが設置された建屋、兵舎、汚染除去トレーラー、トイレが設置された。これら施設は墜落現場での24時間体制での作業を可能にした。 現場の天候は過酷を極め、平均気温は-40℃、低いときで-60℃まで下がり、秒速平均40mの強風が伴った。バッテリー駆動の器具は極寒の中では限られた時間しか動かず、作業員はバッテリーパックをコートの中にしまえるようにし、バッテリーの寿命を伸ばそうとした。作業は、太陽光が徐々に現れ始める2月14日まで照明の下で行われた。 アメリカ空軍は、デンマークの原子力核科学者とともに除去オプションについて検討し、汚染された氷と残骸をアメリカに運び処分することとした。アメリカ空軍作業員は、汚染された氷雪の回収にモーターグレーダーを使用し、現場で木箱に積み込んだ。木箱はチューレ基地付近の「タンク・ファーム」と呼ばれた保管場所に運ばれた。そこで、汚染物質は運搬船に積み込まれる前に鋼鉄のタンクに移された。兵器の残骸は評価のためテキサス州のパンテックス・プラントへ送られ、タンクはサウスカロライナ州のサバンナ・リバー・サイトへ運ばれた。 作戦完了までの9か月間で、両国から700名の専門の作業員と70以上のアメリカ政府機関が現場での除去作業に、しばしば適切な防護服や汚染対策なしで従事した。合計で2,100m3にのぼる汚染液体と30個のタンクに入った汚染物質がタンク・ファームに集められた。アメリカに送る最後のタンクが船に積まれ、プロジェクト・クレステッドアイスは1968年9月13日をもって終了した。この作戦にかかったコストは、940万ドル(2009年時点で5千9百万ドルに相当)にのぼった。 アメリカ空軍は現地要員の鼻腔内組織を採取して大気汚染を調査した。9,837のサンプルが採集され、そのうちの335でアルファ粒子放射能が検出されたが、許容レベルを超えたものはなかった。尿検査も実施されたが、756のサンプルで検出できる濃度のプルトニウムは発見されなかった。
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