プロジェクト・サイン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:37 UTC 版)
米国でのUFOの目撃例は1945年から増加が相次いでいた。しかし当時の米国には公式なUFO調査機関は無く、AMC(航空資材コマンド)のみが目撃報告を収集していた。AMCのネイサン・トワイニング司令官は陸軍に「空飛ぶ円盤」の本格的な研究機関を設置してほしい、と書簡を送った。その書簡には「航空機に匹敵する」大きさの「円盤状の物体」が存在していること、その物体は「猛烈なスピードや機動性」をほこり、「友軍機やレーダーが目撃あるいは接触した際に回避行動を取る」「編隊を組んで飛行する」ため「自動、あるいは遠隔で操縦されている可能性がある」ことなどが記されていた。米国はソ連と冷戦の最中であったため、米国空軍はUFOがソ連の秘密兵器である可能性と考え、1947年に「プロジェクト・サイン(英語版)」と名付けたUFO調査プロジェクトをスタートさせた。 プロジェクト・サイン創立の2週間前にマンテル大尉事件が起こり、スタッフはより熱心に数多くのUFO問題について調査するようになった。その結果プロジェクト内でも誤認説、自然現象説と地球外起源説を唱えるグループに派閥が分かれ、一時的には後者が有力となり、地球外起源説に研究の焦点が当てられた。続く1948年には識別能力のあるパイロットが葉巻型UFOを目撃するというイースタン航空事件が起こり、スタッフは「UFO現象は地球外起源のものであることを示している」と結論をつけた調査結果をまとめた。その調査は空軍のホイト・バンデンバーグ長官に「根拠に乏しい」と判断され焼却された。この報告書が賛同を得られなかったために、プロジェクト・サインは路線変換に迫られ、UFOは異常な現象ではないと考えるスタッフが優勢になった。1949年にプロジェクト・サインが行った調査では、エイリアンクラフトとしてのUFOの存在を肯定する明確な証拠はないとされた。(ただし、目撃されたUFOの20%が「説明不能」と分類された)
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