プリーディーが遺したもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 08:59 UTC 版)
「プリーディー・パノムヨン」の記事における「プリーディーが遺したもの」の解説
第二次世界大戦前後のタイにあって、最も影響力をもった政治家は、「永久宰相」とあだ名されたピブンであることは、多くの賛同を得ることであろうが、プリーディは、もう一方の極であったと言える。二人は、同時期にフランスに留学し(但し、年齢はピブンの方が13歳年上)、タイの旧体制を憂慮し、人民党を結成、立憲革命を起こして、協働して絶対王政を打倒した。しかしその後、プリーディーが文民として、急進的ともいえるリベラルな政治を志向したのに対して、軍人であるピブンは、軍を背景とした民主主義のプロセスから離れることもいとわない独裁的な手法の下、現実的な路線をとるという、両極端の途に分かれた。なお、二人とも結局故国を追われ、亡命先で客死するという運命を共にしている。 プリーディーはタイの歴史において、二つの対立する姿を残している。ひとつは、1932年立憲革命の 指導者としてのものであり、ここでも相反する面を見せている。国王と王政を厳しく批判した「革命宣言」は、彼の起草によるものである。にもかかわらず、ラーマ8世が即位するとその摂政の職についており、タイ国共産党とは、公的に一線を画していた。 軍政下において、プリーディーは、そのリベラルな信条から、「共産主義者」に擬せられ、ラーマ8世の謎の死においては批判と嫌疑の目にさらされた。 右派勢力は、プリーディーを、若く人気のある君主を担ぎ出そうとしているのだと批判し、この批判は、1957年のクーデターで頂点に達する。 後に、セーニー・プラーモートは、戦後タイはイギリスの植民地支配を受けようとしており、プリーディーは受け入れようとしていたが、それから救ったと証言している。ブリストル大学教授ナイジェル・ブレイリーは、自由タイ運動はほとんどペテンのようなもので、そこで果たしたプリーディーの役割についても懐疑的である、即ち、「プリーディーが、政治信条として連合軍に接近したのかは疑問である、というのも、1942年8月をずっと遡って、彼の抗日的な態度はピブンへの対抗心の表れのように見える。」と主張する。 プリーディーは、ピブンを権力の座から追い落としたかったのは間違いないし、戦争の結果そうすることもできた。プリーディーには、戦前、枢軸国と共同することがピブンに有利に働き、彼の独裁制を強化するものであることは明白であった。日本国がプリーディーの敵愾心を認識し、そのことで、1941年12月内閣を去らせることになるが、セーニーや英国内での抗日運動の首領であったスパサワット王子から、前英国大使ジョサイア・クロスビーにいたるまで、全ての知識人が、プリーディーが民主的抵抗の旗手として立ち上がるであろうと期待したのも当然であった。 近年、保守的王党派の政治家スラック・シワラック (th:สุลักษณ์ ศิวรักษ์)がプリーディーのもっとも熱心な支持者として台頭している。自由タイ運動がタイの主権を維持することとなったのは、やはり事実として、プリーディーに対する生前の批判については、1947年に政権に復帰したピブンら軍部と、セーニー及び彼の率いる民主党の共同謀議であったと逆に批判している。 スラックは、プリーディーの偉業に対する名誉回復に努めている。その結果、バンコクの4つの通りにプリーディーの名に因み命名された。うち3つはソイ・プリーディー・パノムヨン、もうひとつは下賜名に因むプラディットマヌータム通りである。 彼の誕生日である5月11日はプリーディー・パノムヨン記念日とされている。1997年、タイ政府はバンコクの東に自由タイ運動を記念する公園を整備、2003年8月16日、公園内に戦時中プリーディーの屋敷を模した図書館兼資料館を建設した。 1999年10月30日、ユネスコは、プリーディー・パノムヨンを、彼の業績のみならず、彼の理想と政治姿勢の高潔さに敬意を表して、2000年を生誕100年として世界の偉人と歴史的事件のカレンダーに加えた。
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