プリチェット弾の開発と採用
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「エンフィールド銃」の記事における「プリチェット弾の開発と採用」の解説
1852年、後にジェームズ・パリス・リー(英:James Paris Lee)と共にリー・メトフォードを開発することになる技術者、ウィリアム・エリス・メトフォード(英:William Ellis Metford)は、長距離(1200ヤード)におけるライフル射撃について研究しており、彼は1852年半ばから長距離射撃用の弾丸の性能に不満を抱いていた。鉄製カップが挿入されているミニエー弾のような、2つのパーツで構成された弾丸は、メトフォードにとっては簡単な問題を複雑な方法で解決しているようなものだった。 そして彼は、自身のアイデアである「完璧なライフルマスケット弾」の構想を練り始める。メトフォードのアイデアは、火薬の燃焼で発生するガスの圧力によって、慣性と物理の法則で拡張する弾底部に浅い空洞をもつ弾丸であった。 1852年の(おそらく)春か夏に、メトフォードがプリチェット&サン(Pritchett & son)を経営するガンメーカーであるロバート・テイラー・プリチェット(英:Robert Taylor Pritchett)と出会うと、二人は新型弾丸のコンセプトについて考え始める。メトフォードは、弾丸のアイデアを、プリチェットは試作銃を生産可能な銃火器工場や、弾丸を作れる弾鋳型を持っていた。 そうしてプリチェットは、メトフォードのアイデアである「ミニエー弾のような深い空洞ではなく、浅い空洞を弾底部に持つ椎の実型の弾丸」を元に新型弾丸の開発を始め、「プリチェット弾(英:Pritchett bullet)」を開発する。このプリチェット弾は、ミニエー弾とは違って浅い空洞があり、これは弾丸の後端を前部より軽くするためにある。 プリチェット弾の拡張構造は、火薬の燃焼によって起こるガス圧が、この軽い弾丸後端部分の空洞を、重い弾丸前部へと押し付け、弾丸を押しつぶすようにして、弾丸を半径方向へと拡張、そしてライフリングに吻合させるというものであった。これによって、ガスの圧力で最大0.003~4インチまで拡張し、銃身内にスキマを残さなかった。そして弾丸は非常にバランスが取れていたため、長距離射撃において高い精度を出した。 プリチェットは、プリチェット弾への調整を始めると、銃火器の専門家や、銃の娯楽サークルの間でプリチェット弾の噂が広まり、1852年半ばには、小火器委員会の耳にも入った。そして同時期に、プリチェットも有名なガンメーカー達が参加しているトライアルの存在を知る。 小火器委員会が射撃トライアルを終え、1852年8月に2丁のプロトタイプのエンフィールド銃を作ると、プリチェットは.577口径の銃身に対応し、軍用弾薬包で使用可能なプリチェット弾を製造するように頼まれた。プリチェットは、重量520グレイン(約33.7グラム)、高さ.960インチ(約2.4センチ)、口径568口径(約1.4センチ)のプリチェット弾を委員会に提出した。弾丸は、弾の全長の三分の一の深さがある浅い弾底部(ミニエー弾や、デルヴィーニュ弾は三分の二)が在り、弾側面に溝(タミシエ・グルーヴ)がないため、紙製弾薬包(紙パッチ)で使用可能だった。 1852年の12月2日、プリチェット弾はエンフィールドにて、プロトタイプのエンフィールド銃から初めて射撃された。この射撃の時に使われた弾薬包は、61.5グレイン(約4グラム)のF.G.パウダーが入っており、これは1851年型ライフルマスケットの弾薬包内の火薬より10%少なかった。レポートによると結果は、「800ヤード先(約732メートル)の12×12フィートの四角いターゲットに、20発中19発命中し、縦10フィート(3.05メートル)、横5フィート(1.52メートル)の弾痕グループを作った」というもので、プリチェット弾はこれまで試されたものより性能が良いことが分かった。1852年当時では、プリチェット弾のこの射撃性能は、驚異的なものであった。 この時、小火器委員会は、マスケット銃の古い装填方法を破棄する準備ができておらず、新たな弾薬包を作った。この弾薬包は、弾丸が弾薬包の先端にあり、火薬は底部にあるもので、滑腔銃身のマスケット銃の弾薬包と似たような構造、装填方式をもった。この弾薬包の構造によって、新型エンフィールド銃が滑腔銃身のマスケット銃と同じように装填できることを望んだ。しかし、レポートによると、射撃性能は許容範囲内であったが、銃身がすぐにファウリングを起こした事が分かった。これは、弾薬包紙ではなく、弾丸にグリースを塗った事が原因で、これにより、発砲時に弾丸が黒く焦げ、チェンバーから2インチ(5cm)ほど銃身を汚してしまった。これに比べ、フランスで発明された新型弾薬包は、弾丸ではなく、弾丸を包む弾薬包紙がグリースに漬けられているので、毎発砲時に必ず銃身のファウリングを防いだ。 結局、小火器委員会が作成した弾薬包は性能が良くなかったので、委員会は、このフランスで発明された新型弾薬包の構造を踏襲したものを、エンフィールド銃の弾薬包として採用した(以降、エンフィールド銃に使用された弾薬包を「エンフィールド弾丸包」と呼ぶ)。初期のエンフィールド弾薬包は、1851年型ライフルマスケット用の弾薬包と全く同じデザインだった。装填方法は 弾薬包の先端を口で破り、火薬を銃口内へと流し込む。 次に弾薬包を反転し、弾丸が内蔵されている部分を銃口へ嵌める。 そして不要となった火薬内蔵部分の紙を手でちぎり取って捨て、ラムロッドで弾丸を銃身の底まで押し込む。 というものだった。 この初期の弾薬包は、.568口径のプリチェット弾を包んだ時に、弾丸の直径が.576インチになり、これはエンフィールド銃の.577口径の銃身と0.001インチしか差がない事から、銃口にキツく嵌った。そのため、弾薬包は、どの様な種類の紙を使用しても、厚さが0.009インチ以上大きくならないように製造された。そして弾薬包は、弾丸が内蔵されている部分までが獣脂(牛脂または豚脂)と蜜蝋が6:1の割合で配合されたグリースに漬けられており、これはファウリング防止に非常に役立った。 エンフィールド弾丸包で使用した時のプリチェット弾の性能は非常に良く、王立兵器廠の機械工であったスコットランド人、ジョン・アンダーソン によって製造されたアンダーソン弾丸製造機で簡単に圧縮製造(英:Swaging) ができたので、小火器委員会はプリチェット弾の性能にとても満足した。プリチェット弾は前装式ライフルの問題を全て解決した弾丸だった。 1852年12月31日、小火器委員会は、「.577口径の銃身と、.568口径のプリチェット弾を推薦する」という内容の最終レポートを提出した。これを最後にプリチェットはエンフィールド銃の弾丸に関する開発、改良を終了し、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国議会から1,000ポンド(日本円にして約2,700万円)支払われた。しかし、この時のレポートにはどのようなライフリングをエンフィールド銃に採用するかが書かれていなかった。
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