ブームの兆し、そして全盛期へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 08:07 UTC 版)
「コンクール・デレガンス」の記事における「ブームの兆し、そして全盛期へ」の解説
1920年代は、第1次大戦後の熱に浮かされたように、アメリカを発端とするいわゆるジャズ・エイジの到来によって、先進国には享楽的な20世紀消費文化が開花していた。その中で自動車には、空力とアール・デコ、そしてフトゥリズモによる「速度の美」の芸術思想から、「流線型デザイン」という新たなデザイン様式がもたらされた。この様式が自動車デザインの自由度を格段に向上させたことで、欧米のコーチビルダーたちはこぞって自動車美という新しい美を競い合い、その過熱さを増していくことになる。そこで自動車の美しさを競う大会であるコンクール・デレガンスが、欧米各国でかつてない気運の高まりと大盛況を迎えはじめたのは、まさしく必然的なことであった。フランス国内ではドーヴィル、ディナール、アルカション、ニース、カンヌ、ブローニュの森など、そして国外ではスイスのジュネーヴやイギリスのブライトン、モナコのモンテカルロなどで優雅な競争が繰り広げられた。なお1928年には、大富豪として知られる薩摩治郎八とその妻千代子がニース(カンヌとも言われる)の大会に出場、クライスラー・インペリアルで見事に優勝を飾っている。 そしてこの時代の中でも著名であった大会の一つが、イタリアのコモ湖畔にある庭園公園ヴィラ・デステ(英語版)で行われた、「コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステ(当時の名称は「コッパ・ドーロ・ヴィラ・デステ」)」であった。第一回は1929年9月に開催され、2020年現在では現存する最も古いコンクール・デレガンスとしてその名が知られている。しかし第1回の開催はウォール街にはじまる世界恐慌のたった2ヶ月前の出来事であり、以降は自動車生産の合理化が加速していくことになった。それにもかかわらず、コーチビルディングビジネスは無事に留まり、コーチビルダーたちは20年間の猶予を享受した。そして1930年代に彼らはおそらく比類のないまま残っている創造的な表現の高さに達する。ブガッティ、ドライエ、ドラージュ(英語版)、イスパノ・スイザ、タルボ・ラーゴ(英語版)、イソッタ・フラスキーニ(英語版)、ロールス・ロイス、ベントレー、アルファロメオら高級車専門メーカーが、フィゴーニ・エ・ファラッシ(英語版)、プルートー(英語版)、レトゥノール・エ・マルシャン(英語版)、コルシカ(英語版)といった名門コーチビルダーを従えて世に送り出した、車輪の上の彫刻とも言えるフラムボワイヤンな芸術品の数々がその証である。そのため第二次大戦が本格化する1940年までこの大会は継続的に開催され、そのコスモポリタンな性質と人気は依然と優れたレベルにあった。 当時の大会形式は、豪奢な衣装を身に纏った参加女性が自動車から降りてその脇に立ち(多くは洒落た犬を引き連れて)、優雅なポージングで立ち止まって審査員にアピールするという、現代のイベントコンパニオンの走りとも言えるものであった。これは、当時の曲線的な自動車デザインを女性の曲線的な美しさとして、"エレガンス"という視点からなぞらえたものでもあった。そのために大会は、自動車メーカーやコーチビルダーのみに留まらず、当時のファッションデザイナーにとっても自身の作品をアピールする重要な場として認識され、高級ファッションショーさながらのイベントとなっていた。ただし、その影響力の大きさ故にココ・シャネルは、"女性を自動車の販売促進のために利用している"として、その形式に対して批判的な立場を取った。
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