フラ=アンジェリコとは? わかりやすく解説

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フラ‐アンジェリコ【Fra Angelico】

読み方:ふらあんじぇりこ

アンジェリコ


フラアンジェリコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/19 22:29 UTC 版)

フラアンジェリコ
欧字表記 Fra Angelico[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 栗毛[1]
生誕 2008年5月24日(17歳)[1]
抹消日 2016年5月25日[2]
ネオユニヴァース[1]
カーリーエンジェル[1]
母の父 ジャッジアンジェルーチ[1]
生国 日本北海道安平町[2]
生産者 ノーザンファーム[1]
馬主 (有)サンデーレーシング[1]
調教師 斎藤誠美浦[1]
競走成績
生涯成績 42戦6勝[1]
獲得賞金 1億4534万3000円[1]
勝ち鞍
GIII 京成杯AH 2015年
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フラアンジェリコ(欧字名:Fra Angelico2008年5月24日 - )は、日本競走馬。主な勝ち鞍は2015年の京成杯オータムハンデキャップ

馬名の由来は、画家グイード・ディ・ピエトロの通称名(天使のような修道士の意)より[2]

経歴

2歳 - 6歳(2010年 - 2014年)

2010年12月18日、阪神競馬場6レースの2歳新馬戦(芝1400m)でデビューし3着。3戦目からはダートに転向し、通算6戦目となった2011年6月19日の函館競馬場・3歳未勝利戦(ダート1700m)で初勝利を収めた。その後は条件クラスで出走を重ね、5歳春からは芝に再転向。

6歳7月、1600万下の五稜郭ステークスを勝利し、31戦目でようやくのオープン入りを果たした。11月に初の重賞挑戦で出走した福島記念は単勝40.3倍の13番人気と伏兵扱いだったが、上り最速の脚で前方集団に迫り、ミトラから1馬身1/4差の2着に好走した[3]

7歳・8歳(2015年・2016年)

7歳9月の京成杯オータムハンデキャップは前走の七夕賞、前々走のダービー卿チャレンジトロフィーで共に二桁順位だったこともあり、単勝62.7倍の13番人気と期待されていなかったが、最後方から最軽量53キロのハンデを生かす形で脚を伸ばすと、最後はゴール寸前で10番人気エキストラエンドを差し切り念願の重賞初優勝を果たした[4]。3着には7番人気のヤングマンパワーが入り、三連単の払い戻しが222万7820円に達する大波乱の決着となった[5]。10月には初のGI挑戦でスプリンターズステークスに出走したが、最下位15着に敗れる。

その後は4戦して全て9着以下に沈み、2016年5月25日付で競走馬登録を抹消され引退した[2]

引退後

引退後、北海道苫小牧市ノーザンホースパークで乗馬になった[6]。2023年4月現在は三重県伊賀市のクレイン三重で繋養されている[7]

競走成績

以下の内容は、JBISサーチ[1]、netkeiba.com[8]に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)


オッズ
(人気)
着順 タイム
(上り3F)
着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬) 馬体重
[kg]
2010.12.18 阪神 2歳新馬 芝1400m(良) 14 5 7 004.20(2人) 03着 R1:23.4(35.5) -1.0 0北村友一 55 アフロディシアス 504
2011.01.08 京都 3歳未勝利 芝1600m(良) 16 7 13 008.70(5人) 11着 R1:37.3(36.2) -1.7 0安藤勝己 56 エーシンハーバー 504
0000.01.22 小倉 3歳未勝利 ダ1700m(良) 16 2 3 004.20(1人) 03着 R1:49.0(38.3) -0.0 0北村友一 56 マイネルソラーナ 504
0000.04.16 小倉 3歳未勝利 ダ1700m(良) 13 4 4 002.60(1人) 06着 R1:48.5(39.0) -1.0 0北村友一 56 アウグーリオ 498
0000.05.28 京都 3歳未勝利 ダ1400m(重) 16 1 1 005.50(4人) 02着 R1:24.6(37.3) -0.7 0北村友一 56 レスタービート 500
0000.06.19 函館 3歳未勝利 ダ1700m(良) 11 3 3 004.00(2人) 01着 01:47.3(38.2) -0.1 0上村洋行 56 (ジャニアリシックス) 502
0000.12.25 中山 3歳上500万下 ダ1800m(良) 16 2 3 007.20(4人) 05着 01:55.2(39.3) -0.4 0I.メンディザバル 56 ゴールドアカデミー 498
2012.01.14 中山 4歳上500万下 ダ1800m(良) 16 5 9 003.30(1人) 02着 01:54.5(37.4) -0.0 0石橋脩 56 テープカット 494
0000.01.29 東京 4歳上500万下 ダ1600m(稍) 16 7 13 001.80(1人) 01着 R1:39.6(37.0) -0.3 0内田博幸 56 (テンゲントッパ) 500
0000.02.11 東京 4歳上1000万下 ダ1300m(稍) 16 7 14 003.20(1人) 04着 01:19.7(35.4) -0.8 0内田博幸 57 スモールキング 492
0000.05.06 東京 日吉特別 1000万下 ダ1600m(良) 16 5 10 005.80(2人) 06着 01:37.8(37.4) -0.6 0内田博幸 57 ステキナシャチョウ 492
0000.05.26 東京 4歳上1000万下 ダ1600m(良) 16 2 4 001.90(1人) 03着 R1:37.9(37.7) -0.7 0内田博幸 57 ユジェニックブルー 496
0000.06.10 東京 3歳上500万下 ダ1600m(重) 16 2 4 001.60(1人) 01着 R1:37.5(37.4) -0.2 0C.ウィリアムズ 57 (スリープレシャス) 502
0000.10.06 東京 多摩川特別 1000万下 ダ1600m(良) 16 7 13 010.30(4人) 09着 R1:37.5(37.4) -0.8 0石橋脩 57 マスクトヒーロー 502
0000.11.04 東京 3歳上1000万下 ダ1600m(良) 16 1 1 004.10(2人) 03着 R1:37.8(36.9) -0.6 0I.メンディザバル 57 タイガースラム 494
0000.11.25 東京 マーヴェラスJT 1000万下 ダ1600m(良) 15 3 4 006.50(3人) 07着 R1:37.7(37.1) -0.9 0山口勲 58 アメリカンウィナー 498
2013.01.27 東京 大島特別 1000万下 ダ1600m(良) 16 4 7 006.80(3人) 10着 R1:38.0(37.8) -0.9 0W.ビュイック 55 スズカヴィグラス 504
0000.03.03 中山 4歳上1000万下 芝1600m(良) 15 5 9 009.10(6人) 01着 R1:36.4(34.1) -0.2 0田辺裕信 57 (コスモトゥルーラヴ) 500
0000.04.14 中山 春興S 1600万下 芝1600m(良) 15 8 14 016.70(8人) 06着 R1:32.9(34.2) -0.1 0A.シュタルケ 57 ルナ 500
0000.05.05 東京 湘南S 1600万下 芝1600m(良) 18 2 3 027.7(12人) 17着 R1:33.9(35.2) -1.4 0江田照男 57 フジマサエンペラー 512
0000.07.06 福島 天の川S 1600万下 芝1800m(良) 16 2 4 015.30(6人) 07着 R1:47.6(34.9) -0.8 0田辺裕信 54 メイショウサミット 502
0000.07.27 函館 漁火S 1600万下 芝1800m(良) 14 4 5 020.60(8人) 03着 R1:49.6(36.1) -0.4 0丸山元気 57 ルナ 494
0000.09.28 中山 秋風S 1600万下 芝1600m(良) 16 8 15 035.7(11人) 02着 R1:33.3(34.2) -0.1 0田辺裕信 57 ブレイズアトレイル 506
0000.10.20 東京 甲斐路S 1600万下 芝1800m(不) 12 1 1 010.70(5人) 06着 R1:52.8(35.5) -1.0 0田辺裕信 57 ディサイファ 506
0000.12.08 中山 美浦S 1600万下 芝1800m(良) 10 2 2 012.80(3人) 04着 01:48.8(34.4) -0.6 0内田博幸 57 レッドレイヴン 510
0000.12.15 中山 南総S 1600万下 芝1600m(良) 12 2 2 007.90(3人) 02着 01:34.2(35.2) -0.0 0田辺裕信 55 サンライズメジャー 512
2014.01.19 中山 初富士S 1600万下 芝1800m(良) 14 3 3 011.10(5人) 05着 R1:47.9(35.4) -0.4 0武士沢友治 56 フェスティヴタロー 516
0000.03.08 中山 スピカS 1600万下 芝1800m(良) 7 6 6 004.60(3人) 04着 01:50.7(36.1) -0.6 0田辺裕信 57 トーセンジャガー 512
0000.04.20 中山 春興S 1600万下 芝1600m(良) 12 5 6 005.50(3人) 04着 01:34.3(34.1) -0.3 0戸崎圭太 57 アーデント 506
0000.05.03 東京 春光S 1600万下 ダ1600m(良) 14 2 2 011.40(4人) 11着 R1:37.5(36.8) -1.1 0戸崎圭太 57 メイショウコロンボ 506
0000.07.12 函館 五稜郭S 1600万下 芝1800m(良) 12 2 2 014.30(6人) 01着 R1:47.5(35.5) -0.1 0柴山雄一 57 (サクラボールド) 506
0000.09.07 札幌 丹頂S OP 芝2600m(良) 14 8 13 025.0(10人) 11着 R2:44.0(37.1) -0.8 0柴山雄一 54 タマモベストプレイ 506
0000.11.16 福島 福島記念 GIII 芝2000m(良) 16 5 9 040.3(13人) 02着 R1:58.3(34.1) -0.2 0柴山雄一 54 ミトラ 510
2015.03.15 中山 東風S OP 芝1600m(良) 14 3 3 020.20(7人) 07着 R1:34.3(34.5) -0.5 0石橋脩 57 クラリティシチー 522
0000.04.05 中山 ダービー卿CT GIII 芝1600m(良) 16 3 5 039.5(13人) 10着 R1:33.5(34.7) -1.3 0柴山雄一 54 モーリス 514
0000.07.12 福島 七夕賞 GIII 芝2000m(良) 16 2 4 017.10(7人) 11着 R1:59.0(34.4) -0.8 0田辺裕信 54 グランデッツァ 512
0000.09.13 中山 京成杯AH GIII 芝1600m(良) 16 6 12 062.7(13人) 01着 R1:33.3(33.6) -0.0 0田辺裕信 53 エキストラエンド 518
0000.10.04 中山 スプリンターズS GI 芝1200m(良) 15 7 14 087.3(13人) 15着 R1:09.2(33.4) -1.1 0北村宏司 57 ストレイトガール 520
0000.11.15 福島 福島記念 GIII 芝2000m(重) 16 6 12 021.1(11人) 09着 R2:03.3(38.0) -0.8 0丸山元気 55 ヤマカツエース 510
2016.01.05 中山 中山金杯 GIII 芝2000m(良) 13 5 8 067.7(12人) 11着 R2:02.2(33.8) -1.0 0柴山雄一 55 ヤマカツエース 516
0000.04.03 中山 ダービー卿CT GIII 芝1600m(良) 16 8 15 157.7(14人) 16着 R1:34.2(34.3) -1.4 0石橋脩 55 マジックタイム 518
0000.05.21 東京 メイS OP 芝1800m(良) 15 8 15 107.9(14人) 13着 R1:46.7(34.0) -0.9 0吉田豊 55 ロジチャリス 514

血統表

フラアンジェリコ血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 サンデーサイレンス系

ネオユニヴァース
鹿毛 2000
父の父
*サンデーサイレンス
青鹿毛 1986
Halo Hail to Reason
Cosmah
Wishing Well Understanding
Mountain Flower
父の母
*ポインテッドパス
栗毛 1984
Kris Sharpen Up
Doubly Sure
Silken Way Shantung
Boulevard

カーリーエンジェル
栗毛 1990
*ジャッジアンジェルーチ
栗毛 1983
Honest Pleasure What a Pleasure
Tularia
Victorian Queen Victoria Park
Willowfield
母の母
ダイナカール
鹿毛 1980
*ノーザンテースト Northern Dancer
Lady Victoria
シャダイフェザー *ガーサント
*パロクサイド
母系(F-No.) パロクサイド(GB)系(FN:8-f) [§ 2]
5代内の近親交配 Victoria Park 4×5(母内) [§ 3]
出典
  1. ^ [9], [10]
  2. ^ [9], [10]
  3. ^ [9], [10]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n フラアンジェリコ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2022年11月27日閲覧。
  2. ^ a b c d フラアンジェリコ Fra Angelico(JPN)”. 競走馬情報. 日本中央競馬会. 2022年11月27日閲覧。
  3. ^ 【福島記念】6番人気のミトラが重賞初制覇!”. サンスポZBAT!競馬 (2014年11月16日). 2022年11月29日閲覧。
  4. ^ 【京成杯AH】フラアンジェリコVで大波乱!”. サンスポZBAT!競馬 (2015年9月13日). 2022年11月29日閲覧。
  5. ^ 【京成杯AH】アンジェリコ5頭叩き合い鼻差制した!3連単222万円”. ススポニチアネックス (2015年9月14日). 2022年11月29日閲覧。
  6. ^ フラアンジェリコ引退、乗馬に”. ラジオNIKKEI 競馬実況web (2016年5月25日). 2022年11月28日閲覧。
  7. ^ 令和5年度 乗用馬登録名簿 東近畿”. 全国乗馬倶楽部振興協会 (2023年4月30日). 2025年6月20日閲覧。
  8. ^ "フラアンジェリコの競走成績". netkeiba.com. ネットドリーマーズ. 2022年11月28日閲覧
  9. ^ a b c 血統情報:5代血統表|フラアンジェリコ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2022年11月27日閲覧。
  10. ^ a b c フラアンジェリコの血統表”. netkeiba.com. 2022年11月27日閲覧。

外部リンク


フラ・アンジェリコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/03 14:29 UTC 版)

フラ・アンジェリコ
ルカ・シニョレッリがフラ・アンジェリコの死後の1505年頃に『アンチキリストの支配』に描いた肖像画(部分)。オルヴィエート大聖堂
生誕 グイード・ディ・ピエトロ
1390年 / 1395年
イタリア
ヴィッキオ
死没 1455年2月18日
イタリア
ローマ
国籍 イタリア
著名な実績 絵画
運動・動向 初期ルネサンス
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フラ・アンジェリコまたはベアート・アンジェリコ: Fra' Angelico / Beato Angelico1390年 / 1395年[1] - 1455年2月18日)は、初期ルネサンス期イタリア人画家。本名はグイード・ディ・ピエトロ (Guido di Pietro) で、フラ・アンジェリコは「修道士アンジェリコ」を意味する通称であり、「アンジェリコ」は「天使のような人物」という意味である。同時代の人々からは「フィエーゾレの修道士ジョヴァンニ」を意味するフラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレという名前でも知られていた[2]

フラ・アンジェリコは15世紀前半のフィレンツェを代表する画家で、イタリアでは存命時に「福者アンジェリコ」を意味するベアート・アンジェリコとも呼ばれており、これはフラ・アンジェリコが宗教的モチーフを題材とした絵画を描く才能に優れていたことに由来していた[3]。1982年に教皇ヨハネ・パウロ2世がフラ・アンジェリコを福者に認定したことにより[4]、名実ともに「ベアート・アンジェリコ(福者アンジェリコ)」となった。「フィエーゾレ」はフラ・アンジェリコの本名の一部だと誤解されることもあるが、単にドミニコ修道会に誓願を立てた場所の町名に過ぎず、他に同名のジョヴァンニという修道士がいたことから、二人を区別するために使用されただけである。ローマカトリック教会殉教者名簿 (en:Roman Martyrology) [5]には「福者ジョヴァンニ・フィエーゾレ、愛称アンジェリコ Beatus Ioannes Faesulanus, cognomento Angelicus」という名前で記載されている。

ジョルジョ・ヴァザーリはその著書『画家・彫刻家・建築家列伝』でフラ・ジョヴァンニ・アンジェリコという名前で記述し、「まれに見る完璧な才能の持ち主[6]」として次のように紹介している。

この修道士をいくら褒め称えても褒めすぎるということはない。あらゆる言動において謙虚で温和な人物であり、描く絵画は才能にあふれており信心深い敬虔な作品ばかりだった[6]

略歴

『聖者と聖母子』部分(1424年 - 1425年頃)
聖ドミニコ教会(フィエーゾレ)

1395年 - 1436年

フラ・アンジェリコは14世紀末にトスカーナ州フィレンツェ北部のフィエーゾレ近郊ヴィッキオのルペカニーニャで生まれた[7]。フラ・アンジェリコの両親については一切知られていない。洗礼名はグイードかグイドリーノである。フラ・アンジェリコに関する最初の記録は、1417年10月17日にカルメル修道会が主催する信心会に入信したというもので、その記録にはグイード・ディ・ピエトロという名前で記されている。この記録にはフラ・アンジェリコがすでに画家として生計を立てていたことも書かれており、このことは1418年の1月と2月にサン・ステファノ・デル・ポンテ教会の依頼で絵画を描いて報酬を受け取ったという他の記録からも裏付けられる[8]。修道士としての記録が残っている最古の記録は1423年のもので、フィエーゾレのドミニコ修道会に入信したときに新しく名乗ったと思われるフラ・ジョヴァンニという名前が最初に記された記録となっている[9]

ヴァザーリの著作では、フラ・アンジェリコは当初装飾写本画家として修行を積み、ドミニコ派修道士で装飾写本作家でもあった兄ベネデットとともに働いていたのではないかとされている。フィレンツェのサン・マルコにはフラ・アンジェリコが制作に関わったと思われる装飾写本が所蔵されている[6]。画家ロレンツォ・モナコがフラ・アンジェリコの絵画の師ではないかといわれ、シエナ派の影響をフラ・アンジェリコの作品にみることができる。存命中に修道会で何度も重要な役職に就いたが、創作活動にはまったく影響を及ぼすことはなく、フラ・アンジェリコが描く絵画はたちまちのうちに有名になっていった。ヴァザーリによるとフラ・アンジェリコが最初に描いた作品は祭壇画で、フィレンツェのカルトゥジオ修道会のためのものとされるが現存はしていない[6]

フラ・アンジェリコは1408年から1418年にかけてコルトーナのドミニコ会修道院に滞在し、ゲラルド・スタルニーナ(Gherardo Starnina) の助手、あるいは部下として教会用のフレスコ画を制作しているが、この作品も現存していない[10]。1418年から1436年にはフィエーゾレの修道院で多くのフレスコ画、祭壇画を描いており、どれも保存状態は悪かったものの後年になってから修復されている。ロンドンのナショナル・ギャラリーには列福されたドミニコ派修道士ら250人以上の人物に囲まれるキリストの栄光を描いた祭壇画が完品の状態で収蔵されており、フラ・アンジェリコの才能を示す好例となっている。

1436年 - 1445年 サン・マルコ、フィレンツェ

『マエスタ』(1437年 - 1446年頃)
サン・マルコ美術館(フィレンツェ)
玉座の聖母子と周りを囲む聖コスマス、聖ダミアン、聖ヨハネら聖人が描かれている

フラ・アンジェリコは1436年にフィエーゾレの修道院から、フィレンツェに新しく建設されたサン・マルコ修道院へと多くの修道士とともに移った。この移住はフラ・アンジェリコの画家としてのキャリアに重要な出会いをもたらした。当時のフィレンツェは芸術の最先端都市であり、さらにサン・マルコ修道院に世俗の厄介ごとから逃れるための大きな個室を持っていた[11]、フィレンツェでもっとも裕福な権力者コジモ・デ・メディチの知遇を得て、その後援を受けたのである。ヴァザーリによれば、コジモがフラ・アンジェリコに修道院の壮大な教会参事会会議場などの内部装飾を要請し、階段上部の『受胎告知』や各部屋の壁にキリストの生涯を描いた敬虔な小フレスコ画などを描かせたとなっている[6]

1439年にはもっとも有名な作品の一つである祭壇画『マエスタ』をサン・マルコ修道院のために描いているが、この作品は当時の絵画としては極めて異例なものだった。多くの聖人に囲まれた聖母子という構図自体はありふれたもので、明確に天界での光景として描かれ、聖人や天使は俗人よりもはるかに神聖な存在であることを示すために宙に浮かんで表現されるのが通常だった。しかしながらフラ・アンジェリコが描いたこの作品では聖人たちは普通に地上に立っており、聖母の栄光を共に分かち合うことを喜び、まるで談笑しているかのようなごく自然な姿で聖人たちを描き出している。このような構図は聖会話と呼ばれる絵画形式として知られるようになり、後にジョヴァンニ・ベリーニペルジーノラファエロ・サンティらも数多くの聖会話を手がけることとなった[12]

1445年 - 1455年 バチカン

『聖ラウレンティウスを助祭に任ずる聖ペトロ』(1447年 - 1449年)
バチカン宮殿ニコラウス5世礼拝堂(バチカン)

1445年にローマ教皇エウゲニウス4世サン・ピエトロ大聖堂の秘蹟の礼拝堂のフレスコ画を描かせるために、フラ・アンジェリコをローマへと召致した[13]。ヴァザーリは、このときフラ・アンジェリコはローマ教皇ニコラウス5世からフィレンツェ大司教の地位を提示されたが、これを断って別の修道士を推薦したと断言している。このエピソードは現在伝わっているフラ・アンジェリコの人柄からするといかにももっともらしく思えるが、もしヴァザーリの著作に書かれた日付が正確であるとするならば、当時のローマ教皇はニコラウス5世ではなくエウゲニウス4世である[14]。1447年にフラ・アンジェリコは弟子のベノッツォ・ゴッツォリとともにバチカンを離れてオルヴィエートの聖堂で絵画制作を行っている。このとき同じく弟子だったザノビ・ストロッツィも同行したと考えられている[15]

フラ・アンジェリコは1447年から1449年にかけてバチカンに戻り、ローマ教皇ニコラウス5世の要請でバチカン宮殿の『ニコラウス5世礼拝堂フレスコ画』をデザインしている。これは初期キリスト教殉教聖ステファノ聖ラウレンティウスの生涯を描いたフレスコ画で、制作に当たっては弟子がかなりの部分を描いているのではないかとも考えられている。ニコラウス5世礼拝堂は小規模な建物だが、輝くようなフレスコ壁画と金箔を用いた装飾とが宝石箱のような印象を与える礼拝堂である。1449年から1452年までフラ・アンジェリコはフィエーゾレ修道院に戻り修道院長も務めている[6][16]

死去と列福

フラ・アンジェリコは1455年に、ローマのドミニコ会修道院で死去した。おそらくローマ教皇ニコラウス5世の礼拝堂の絵画作成のためにこの修道院に滞在していたと考えられており、ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に埋葬された[6][16][17]

キリストよ、我に栄誉を与え給え
アペレスでありしためより
すべてを差し出せしために。
我のなしとげし業
地上、天界、異なりし。
我、ジョヴァンニ
トスカーナの花にも似たる
フィレンツェに生を享く — フラ・アンジェリコの墓碑銘[6][18]

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が1982年11月3日にフラ・アンジェリコを列福し、1984年にキリスト教芸術家の守護者として認定した[4]

アンジェリコは「キリストに関する絵画を描くのであれば、常にキリストとともに過ごさなければならない」と何度も語ったという。この考えが「福者アンジェリコ」という別称を彼にもたらしたといえる。アンジェリコの生涯はこの上なく高潔で、その絵画は神聖な美しさにあふれている。とくに聖母マリアを描いた作品は最上級のもので人々に大きな影響を与えている — ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世
フラ・アンジェリコに対するさまざまな評価から、彼が福者と呼ばれた理由を知ることができるかも知れない。ドミニコ会修道士として信心深く禁欲的な生活を送り、神に仕える身分から逸脱することは決してなかった。貧者を救済するという修道会の教えを守り、つねに愛想よくふるまう人物だった。彼が描いた多くの絵画はすべて聖なるものを扱った作品で、完成した作品に後から手を加えたり、修正したりすることは決してなかった。これはおそらく彼自身の宗教的信念によるもので、聖なる存在から霊感を受けて描いた絵画であるため、完成当時そのままの状態に留め置かれたのだろう。キリストの絵画を描く者は常にキリストとともにあらねばならないというのが彼の口癖だった。絵筆をとるときには常に祈りの言葉を捧げ、キリスト磔刑画を描いているときには涙を流していたに違いない。『最後の審判』と『受胎告知』は彼が特に何度も描いたテーマだった。 — イギリス人著述家ウィリアム・マイケル・ロセッティ (en:William Michael Rossetti)[16]

当時の芸術とフラ・アンジェリコの評価

背景

フラ・アンジェリコが活動した時期は、絵画に大きな変革が起きていた時代だった。およそ100年前のイタリア人画家ジョット・ディ・ボンドーネの作品を源流とし、ジュスト・デ・メナブオイ (en:Giusto de' Menabuoi) らフラ・アンジェリコとほぼ同時代の芸術家たちが加わって、この大きな変革を推し進めていった。ジョットもデ・メナブオイも重要な作品をパドヴァで制作し、ジョットはゴシック様式の修業を積んでいたにもかかわらず[19]サンタ・クローチェ聖堂のバルディ礼拝堂に描いた聖フランシスコのフレスコ画はそれまでのゴシック絵画とはまったく異なるものだった。ジョットの作風には多くの熱狂的ともいえる追随者があらわれ、ジョットのフレスコ画を真似た画家の中にはピエトロ・ロレンツェッティのように大きな成功をおさめる者も出た[12]

芸術家のパトロン

最後の審判』(1432年 - 1435年)
サン・マルコ美術館フィレンツェ
サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ教会の依頼で描かれた多翼祭壇画の上部パネル

修道士画家のパトロン(依頼主)は修道院などの宗教的施設か、教会に多額な寄付ができる裕福な一族がほとんどだった。このような修道士画家たちの信仰上の理由からパトロンも保守的な傾向が強く、さらに裕福であればあるほどより保守的になることが多かった。依頼で描かれた絵画には必ずパトロンの名前が書かれた明細書が付属しており、多くの高価な金箔が使用された作品はそれを依頼したパトロンの名誉を表すものだった。絵の具箱に入っている貴重で高価な顔料としてラピスラズリヴァーミリオンがある。これら貴重な顔料から作られた絵の具がふんだんに使用されている作品も、金箔同様にパトロンがいかに裕福であるかを証明することにつながった[20]

同時代の重要な画家

フラ・アンジェリコはイタリア人画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノとほぼ同時代の画家である。ファブリアーノが描いた祭壇画『東方三博士の礼拝』(1423年、ウフィツィ美術館)は、国際ゴシック絵画の最高傑作の一つと評価されている。フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂ブランカッチ礼拝堂では、ジョットの新しい芸術性を正確に理解した若きイタリア人画家マサッチオがフレスコ画を描いている。当時のフィレンツェには、マサッチオほど人物像を力強く、まるで生きているかのように表現力豊かに描き出して他の芸術家に影響を与えた画家はほとんどいない。マサッチオの年長の共同制作者マソリーノもフラ・アンジェリコと同年代の画家である。マサッチオは1428年に27歳という若さで夭折し、ブランカッチ礼拝堂のフレスコ画は未完のままに残されてしまった[12]

フラ・アンジェリコの祭壇画

聖母戴冠』(1434年 - 1435年)
ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

フラ・アンジェリコの作品には、それまでの保守的なゴシック様式と先進的なルネサンス様式とが混在している。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会からの依頼で描き、現在フィレンツェウフィツィ美術館が所蔵する『聖母戴冠』は、金箔、ラピスラズリ、バーミリオンなど、14世紀で望みうる最高の素材が大量に使用された非常に贅沢な祭壇画である。金箔が使用されている背景や聖人たちの頭上の後光、衣服の縁飾りは非常に精緻に細工されており、これらはすべてゴシック様式の手法である。ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの祭壇画と違ってルネサンス様式を感じさせるのは、現実的な立体感をもって三次元的に描かれた人物像と、それらの人物が身にまとっている衣装が垂れ下がる表現やゆったりとしたひだの描写である。描かれている人物は大地ではなく雲の上に立っているが、重量感のある表現で描かれている[12]

フラ・アンジェリコのフレスコ画

『キリストの変容』(1437年 - 1446年頃)
サン・マルコ美術館(フィレンツェ)

フラ・アンジェリコがフィレンツェのサン・マルコ修道院のために描いた一連のフレスコ画は、フラ・アンジェリコがマサッチオの描いた作品の先進性を理解し、さらなる進展を絵画に与えたことを物語っている。裕福なパトロンからの制約や板絵の限界を超越し、神に対する深い敬意と人間への知見、愛を描き出すことに成功した。修道士部屋の壁に描いた飾り気のない静謐なフレスコ画は、それを見て祈る修道士たちに心の平穏をもたらした。赤色よりも青みを帯びたピンク色が多用される一方で、色鮮やかで高価な顔料である青系色はほとんど使用されていない。ドミニコ会の修道服はくすんで艶のない緑色、黒色、白色で構成されている。華美な印象はなく、描かれている静謐な人物像には心の平穏を乱す要素は何もない。フレスコ画を見るものには、あたかもこの絵画が別の平行世界へ通じる窓であるかのように、キリストの身に起こった様々な出来事を自分が実際に体験しているような心理的効果を与えている。これらのフレスコ画を描いたフラ・アンジェリコがいかに信心深い敬虔な男性であったかを証明している作品群である[12]

マサッチオはサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の壁に描いた写実的な『聖三位一体』で絵画に遠近法を導入した。後に続くフラ・アンジェリコも線遠近法の絵画手法を理解し、イタリア人建築家ミケロッツォ・ディ・バルトロメオフィリッポ・ブルネレスキがサン・マルコ地区に建設した拱廊を『受胎告知』などの自身の作品に取り入れている[12]

フラ・アンジェリコが聖人たちを描いた絵画

『教会の宝物を受け取る聖ラウレンティウス』(1447年)
バチカン宮殿ニッコリーネ礼拝堂(バチカン)
高価な顔料、金箔など貴重な素材を使用した細密なデザインは、バチカンが依頼する絵画の典型である

フラ・アンジェリコと弟子がローマ教皇ニコラウス5世からの召致で礼拝堂装飾絵画制作のためにバチカンを訪れたのは、フラ・アンジェリコが再び教皇の機嫌をとる必要があったことが理由だった。この小さな礼拝堂に足を踏み入れると、まるで宝石箱の中に迷い込んだような感覚すら覚える。壁面は色鮮やかな彩色と金箔で飾り立てられ、この豪華な装飾に比肩するのはこれより100年ほど前にゴシック期のイタリア人画家シモーネ・マルティーニが装飾を担当したサン・フランチェスコ大聖堂下堂くらいである。しかしながらその作風にはそれまでの絵画と同様にフラ・アンジェリコが終生追い求めていた慈悲心と信仰とが如実に現れており、人物像が身にまとう金箔が使用された豪華な衣装は優しく穏やかに表現されている。

描かれている人物の様子や彼らから受ける印象からも、フラ・アンジェリコほど聖人たちを本物の聖人らしく描ける画家は存在しない。 — ジョルジョ・ヴァザーリ[6]

現存しているフラ・アンジェリコの絵画の中には、フラ・アンジェリコの下絵を弟子たちが完成させた作品が存在している可能性はある。ベノッツォ・ゴッツォリやジェンティーレ・ダ・ファブリアーノは当時高く評価されていた画家だった。ゴッツォリは表現豊かで現実的な人物像を描き、自身の作風をよりルネサンス風に昇華していった。メディチ家からの依頼でフィレンツェのメディチ・リカルディ宮マギ礼拝堂に描いた代表作『東方三博士の行列』が好例である[21]

後世の画家たちへの影響

フラ・アンジェリコの弟子ベノッツォ・ゴッツォリのフレスコ画に慎重に描かれた肖像画やその絵画技法からドメニコ・ギルランダイオとの関連性を見ることが出来る。ギルランダイオはフィレンツェの有力者をパトロンとし、大規模な構想の作品を次々に描いた。ギルランダイオはミケランジェロの師でもあった人物であり、これらの芸術家の系譜を通じてフラ・アンジェリコの影響は盛期ルネサンスへとつながっている。

1508年にミケランジェロはシスティーナ礼拝堂天井画制作を引き受けた。このときのシスティーナ礼拝堂には、ギルランダイオ、ラファエロの師ペルジーノボッティチェッリらが手がけた『キリストの生涯』『モーゼの生涯』をテーマにした壁画が描かれていた。これらの作品はいつものバチカンの要望どおり大規模で豪奢なもので、構成の複雑さ、人物像の多さ、細部にわたる細密な表現、使用する金箔の量などを画家たちが競い合っているかのような豪華絢爛たる壁画である。これらの壁画の上部にはきらめく衣装と黄金の冠を身につけた歴代ローマ教皇の肖像画が並び、ミケランジェロもこのような壮麗な場所で絵画制作を行った経験はなかった。そして、ローマ教皇ユリウス2世が十二使徒の衣装を壁画と同様に壮麗に飾り立てるよう求めたところ、ミケランジェロは十二使徒はこの上なく清貧だったではないかと言い返したというエピソードがある[12]

フラ・アンジェリコはサン・マルコ修道院の小部屋に、自身の絵画技術と独自の演出によって美しいフレスコ壁画を現出した。高価な素材である青系の顔料や金箔などを使用しなくても素晴らしい作品を描くことが出来るということを証明したのである。そしてフラ・アンジェリコと同じくミケランジェロは、飾り気のないフレスコ画技法、明瞭で鮮やかな柔らかな色彩、重要な役割を果たす数人の人物像、動きや身振りの優れた表現手法などを作品に取り入れることによって、ミケランジェロは自身がフラ・アンジェリコの直系であることを宣言したのである。イタリアルネサンス美術の専門家フレデリック・ハート (en:Frederick Hartt) はフラ・アンジェリコのことをレンブラント・ファン・レインエル・グレコフランシスコ・デ・スルバランのような後世の画家たちのさきがけとなる「神秘的な預言者」と表現している[12]

真作の再発見

2006年11月にフラ・アンジェリコの失われたと考えられていた2点の作品が発見されたという報道が世界中でなされた。ジーン・プレストンが所有していたイングランドのオックスフォードにある「質素なテラスハウス」の空き部屋に飾られていた絵画で、ジーンの父が1965年にそれぞれ100ポンドで購入したものを、1974年に父が死去した際にジーンが相続した絵画だった。ジーンは中世研究の専門家で、生前の父から絵画の作者は誰なのか調べて欲しいという相談を受けていた。ジーンはこの2点の絵画がルネサンス期のフィレンツェで描かれた優れた作品であると評価したが、父の代理でジーンが鑑定を依頼した画商も含め、誰一人としてこれらの絵画の作者がフラ・アンジェリコであると考えたものはいなかった。1960年代には中世美術品の需要はほとんどなかったために画商はまったく興味を示さず、ジーンの父も他の中世装飾写本を何冊か買い求めるついでに購入した絵画だった。皮肉なことにこのときの装飾写本はスペインの贋作家が作った偽物だったことが明らかになっている。しかしながら2005年になってからブリストル大学のマイケル・リヴァシッジがフラ・アンジェリコの作品であると同定した。この2点の絵画は、1439年にフラ・アンジェリコがサン・マルコ修道院のために描いた大きな多翼祭壇画のサイドパネル8枚のうちの2枚で、200年以上前のナポレオン軍侵攻の際に裁断されて修道院から散逸していた。この祭壇画の中央部分はサン・マルコ美術館(以前のサン・マルコ修道院)が、6枚のサイドパネルはドイツ、アメリカの美術館がそれぞれ所蔵しており、今回発見された2枚のパネルは昔に失われたと考えられていたものだった。イタリア政府がこの2点の作品を買い上げようとしたが、2007年4月20日に行われたオークションで個人収集家が170万ポンドで落札した。現在これら2点の作品は修復されて、フィレンツェのサン・マルコ美術館に展示されている[22][23]

ギャラリー

1408年 - 1436年

1436年 - 1445年

1445年 - 1455年

脚注

  1. ^ Metropolitan Museum of Art
  2. ^ 出身地や愛称を取り入れて通称とすることは中世やルネサンス期には普通のことで、例としてレオナルド・ダ・ヴィンチロレンツォ・イル・マニーフィコなどがあげられる
  3. ^ アンドレア・デル・サルト:アンジェリコと同時代のラファエロやミケランジェロたちは全員ベアート・アンジェリコと呼んでおり、これは画家の才能は神からの特別な贈り物であると見なされていたためである
  4. ^ a b Bunson, Matthew; Bunson, Margaret (1999). John Paul II's Book of Saints. Our Sunday Visitor. pp. 156. ISBN 0879739347 
  5. ^ 殉教者名簿にはローマカトリック教会が認定したすべての聖者、福者が記載されている
  6. ^ a b c d e f g h i Giorgio Vasari, Lives of the Artists. Penguin Classics, 1965.
  7. ^ Commune di Vicchio (Firenze), La terra natale di Giotto e del Beato Angelico”. zoomedia. 2011年8月17日閲覧。
  8. ^ Werner Cohn, Il Beato Angelico e Battista di Biagio Sanguigni. Revista d’Arte, V, (1955): pp.207–221.
  9. ^ Stefano Orlandi, Beato Angelico; Monographia Storica della Vita e delle Opere con Un’Appendice di Nuovi Documenti Inediti. Florence: Leo S. Olschki Editore, 1964.
  10. ^ Gherardo Starnina”. Artists. Getty Center. 2011年8月17日閲覧。Getty Education
  11. ^ この個室は後にドミニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラがサン・マルコ修道院長となって引継いでいる
  12. ^ a b c d e f g h Frederick Hartt, A History of Italian Renaissance Art, (1970) Thames & Hudson, ISBN 0-500-23136-2
  13. ^ 後に教皇パウルス3世によって撤去された
  14. ^ ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』の日付やエピソードは不確かなものが多く、現在でもそれら誤りの修正作業が続けられている
    John Symonds' "Renaissance in Italy" Vol 3 part 2
    Victor Ginsburgh and Sheila Weyers, Persistence and Fashion in Art, Leuven (2005)[リンク切れ]
    Ginsburgh, Victor and Weyers, Sheila (2006). “Persistence and fashion in art Italian Renaissance from Vasari to Berenson and beyond”. Poetics 34 (1): 24-44. doi:10.1016/j.poetic.2005.07.001. ISSN 0304-422X. https://doi.org/10.1016/j.poetic.2005.07.001. 
  15. ^ Strozzi, Zanobi”. The National Gallery (London). 2011年8月17日閲覧。
  16. ^ a b c Rossetti, William Michael. "Angelico, Fra". 1911 Encyclopedia Britannica.
  17. ^ フラ・アンジェリコの墓は、列福されて以来認知度が極めて高くなった
  18. ^ ジョルジョ・ヴァザーリ 著、平川祐弘、小谷年司 訳「フラ・アンジェリコ」『芸術家列伝1』白水社、2011年、148-149頁。 ISBN 978-4-560-72122-3 より引用
  19. ^ ジョットの師はゴシック絵画の巨匠チマブーエともいわれている
  20. ^ Michael Baxandall, Painting and Experience in Fifteenth Century Italy,(1974) Oxford University Press, ISBN 0 19 88 1329 5
  21. ^ Paolo Morachiello, Fra Angelico: The San Marco Frescoes. Thames and Hudson, 1990. ISBN 0-500-23729-8
  22. ^ Morris, Steven (14 November 2006). “A £1m art find behind the spare room door”. The Guardian. http://arts.guardian.co.uk/news/story/0,,1947030,00.html 2011年8月19日閲覧。 
  23. ^ Morris, Steven (20 April 2007). “Lost altar masterpieces found in spare bedroom fetch £1.7m”. The Guardian. http://arts.guardian.co.uk/art/news/story/0,,2061644,00.html 2011年8月19日閲覧。 

出典

  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む:  Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Angelico, Fra". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 2 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 6-7-8.
  • William Michael Rossetti. Angelico, Fra. 1911 Encyclopedia Britannica.
  • William Hood. Fra Angelico at San Marco. Yale University Press, 1993.
  • Morachiello, Paolo. Fra Angelico: The San Marco Frescoes. Thames and Hudson, 1990. ISBN 0-500-23729-8
  • Frederick Hartt, A History of Italian Renaissance Art, Thames & Hudson, 1970. ISBN 0-500-23136-2
  • Giorgio Vasari. Lives of the Artists. first published 1568. Penguin Classics, 1965.
  • Donald Attwater. The Penguin Dictionary of Saints. Penguin Reference Books, 1965.
  • Luciano Berti. Florence, the city and its Art. Bercocci, 1979.
  • Werner Cohn. Il Beato Angelico e Battista di Biagio Sanguigni. Revista d’Arte, V, (1955): 207–221.
  • Stefano Orlandi. Beato Angelico; Monographia Storica della Vita e delle Opere con Un’Appendice di Nuovi Documenti Inediti. Florence: Leo S. Olschki Editore, 1964.
  • ジョルジョ・ヴァザーリ著、平川祐弘、小谷年司=訳『芸術家列伝1』白水社、2011年、ISBN 978-4-560-72122-3

日本語文献

  • 『フラ・アンジェリコ神秘神学と絵画表現』 平凡社、2001年
     ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、寺田光徳/平岡洋子訳注
  • 『フラ・アンジェリコ』 〈アート・ライブラリー〉西村書店、1999年、新装版2009年
     クリストファー・ロイド/デーヴィド・ホワイト作品解説、森田義之訳注
  • 『フラ・アンジェリコ 素描研究と色彩への関心』 東京書籍〈イタリア・ルネサンスの巨匠たち10〉、1995年
     ジョン・ポープ=ヘネシー、喜多村明里訳注 

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