バラ革命後の両国関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 19:18 UTC 版)
「ジョージアとロシアの関係」の記事における「バラ革命後の両国関係」の解説
2003年のバラ革命ののち、暫定大統領に就任したニノ・ブルジャナゼや「革命」の立役者で2004年1月の大統領選で圧勝したミヘイル・サアカシュヴィリなど、アメリカで高等教育を受け、通訳なしでCNNに登場できるような「ポストソ連」世代が政治権力を握るという事態はロシアとしては容易に受け入れがたいものであった。サアカシュヴィリが第3代大統領となったのは、当時36歳という若さであった。 ロシアとしては、旧ソ連諸国に対しては、みずからと異なる「極」とみなすのではなく、むしろ、自身の「影響圏」とみなしがちであり、それゆえ、その政策は外交というよりも内政に近いものとなりがちであった。しかし、相手国はロシアとの関係を対外政策(外交)として位置づけているために齟齬が生じるのである。ジョージアの場合も同様であった。 ただし、プルジャナゼやサアカシュヴィリに対するロシアの懸念は、単にアメリカ的価値観に対する警戒感というだけでなく、アメリカによって始まった2003年3月に始まったイラク戦争が長期化したり、あるいは、こののち対イラン戦争が開始されるならば、南コーカサスにあって「文明の十字路」としての歴史を有してきたジョージアが作戦上の要衝として浮上し、そこにアメリカ軍が常駐するのではないかというものであった。そして、やがてはイラクやイランのミサイルのみならずロシアのミサイルをも無力化しうるアメリカのミサイル防衛システムがジョージアに導入される可能性もあり、さらにはそうした動きにのって同国のNATO入りの話が現実のものになっていくのではないかという危惧をともなっていたのである。 一方、バラ革命による政権交代劇は、ムスリムのグルジア人が多く居住し、ジョージアに対して半独立状態にあったアジャリア自治共和国内では厳しい批判にさらされた。アジャリア(アチャラ)のアスラン・アバシゼ最高会議議長はジョージアとの境界を閉鎖し、2004年3月にはサアカシュヴィリ大統領の共和国入りを拒否している。サアカシュヴィリはアジャリアを経済封鎖するに至り、双方の部隊が境界付近に集結する事態へと発展した。2004年5月、「独裁者」とも呼ばれたアバシゼ議長は結局ロシアに亡命し、アジャリアはジョージアの直轄統治を受けることとなった。一方の「未承認国家」アブハジアはロシアによって生命線を握られていた。2004年にはアブハジア大統領選挙があったが、その当選者がロシアの意に沿わない人物であったため、ロシアは大統領選のやり直しをアブハジアにせまり、アブハジアがこれを拒否すると経済制裁をおこなっている。 2003年、サアカシュヴィリ政権は、イラク戦争に際してジョージア国軍のイラクへの派遣さらに増派を決定し、アメリカのブッシュ大統領のトビリシ訪問をホストするなど、親米色を鮮明にし、あわせて国営企業の民営化を推し進めて腐敗追放などによって企業活動の環境を整備した。 2004年8月、サアカシュヴィリ率いるジョージア軍は南オセチアのツヒンヴァリ付近に進入した。南オセチア自治州軍はロシア軍の支援を受け、両者のあいだで銃撃戦が起こった。ジョージア軍はのちに撤退し、2006年11月には南オセチア分離独立の是非を問う住民投票が実施され、発表によれば独立支持が99.9パーセントに達したという。その一方でロシアは2005年ころからコーカサス3カ国に対してガスや電力の供給価格を引き上げるようになり、2006年もかなり値上げし、2007年はさらにガスの2006年価格からさらに約2倍へと引き上げた。 南オセチアをめぐってロシアとジョージアの対立は頂点に達し、2006年、ロシアはジョージアとモルドヴァからのワイン輸入を禁止した。理由は「有害なものが含まれていた」ということであったが、これは根拠に乏しいものであり、親欧米的な両国に対する懲罰の意味合いを有した。ワインはジョージアにとって重要な輸出品であり、ロシアはグルジアワインの輸出先の7割を占めていたことから痛手は大きく、新規の市場を開拓する必要にせまられた。ロシアは、ジョージアに対してはさらにミネラル・ウォーターの禁輸措置を加えた。 2006年9月、ジョージア政府がロシア軍将校4人をスパイ容疑で逮捕し、その身柄を拘束したのに対し、ロシアはその報復として、ジョージア国民に対するすべての査証の発給を停止し、在ジョージアのロシア大使館を閉鎖して、すべての郵便・輸送・鉄道・航空便を一方的に停止、さらに完全な経済封鎖(輸入全面停止の措置)などが実行にうつされた。モスクワ-トビリシ直行便も運航停止となった。ロシア在住のグルジア人の多くは貨物列車や貨物飛行機にすし詰めになるようなかたちでジョージアに強制送還され、その過程で死者さえ出ている。 サアカシュヴィリはさらに欧米に傾斜した。2007年、アメリカのブッシュ大統領がジョージアを訪問すると、空港からトビリシの中心部に向かう国道を「ジョージ・ブッシュ通り」と改称したほどであった。2007年11月以降、今度はジョージア国内でサアカシュヴィリ大統領の辞任を求める大規模デモが展開され、500人以上の負傷者を出し、大統領はこれに対して非常事態宣言を発令した。2008年1月、前倒しして行われた大統領選ではサアカシュヴィリが再選されている。
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