バラ色の時代からキュビスム誕生へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/28 07:55 UTC 版)
「洗濯船」の記事における「バラ色の時代からキュビスム誕生へ」の解説
ピカソはこれ以前からマックス・ジャコブのもとに身を寄せ、ジャコブとともに政治風刺週刊誌『ル・クリ・ド・パリ(フランス語版)』(1897年創刊)の事務所でアルデンゴ・ソッフィチに会い、1903年にソッフィチが『ラ・プリューム(フランス語版)』誌の象徴主義グループに加わると、ピカソとジャコブも同誌に寄稿したため、「洗濯船」に越してから親交が一層深まった。ソッフィチはピカソとのつながりにより、「パリという大都会の耐え難い孤独」を癒され、それまで感じていた「外国人芸術家が直面する険悪な雰囲気」が和らいだという。また、この頃のピカソの絵にも、画家以外との交流を感じさせる要素があるという指摘がある。 同年、ピカソはフェルナンド・オリヴィエ(フランス語版)(1881-1966) に出会った。不幸な結婚の後、彫刻家ローラン・ドゥビエンヌの愛人・モデルとなった彼女が「洗濯船」を訪れたときのことであった。「この建物にあるスペイン人画家が住んでいた。その大きな目、重々しく鋭く、しかも物思わしげな眼差し、あまりにも激しい炎を湛えたその瞳に心を打たれ、私も思わず見つめ返していた」。 以後、ピカソはフェルナンド・オリヴィエをモデルに『眠る女』(1904)、『髪を梳く女』(1906)、『水差しを持つ裸婦』(1906) などの多くの作品を制作すると同時に、これを契機に「青の時代」から次第に明るい色調の「バラ色の時代」に移行することになり、『玉乗りの曲芸師』(1905)、『サルタンバンクの家族』(1905)、『パイプを持つ少年』(1905)、『二人の兄弟』(1906)、『ガートルード・スタインの肖像』(1906) などを制作した。そして、1907年、「キュビスム革命」の発端となった『アビニヨンの娘たち』を発表した。ジャニーヌ・ワルノーは『モンマルトル美術館コレクション案内』で、「1907年に、ピカソが『洗濯船』のアトリエでキュビスムの誕生を記した『アビニヨンの娘たち』を描かなかったら、この建物が美術史上にその名を残すことはなかっただろう」と書いている。キュビスムの作品としては、特に1909年に『オルタのレンガ工場』、『リキュール酒の瓶のある静物』、『フェルナンドの肖像』のほか、彫刻作品『女性の頭部(フェルナンド)』を制作した。 1909年9月、スペインの旅から帰った二人は「洗濯船」を去って、クリシー大通り11番地に大きなアパート兼アトリエを借りた。この頃から二人の関係は「冷え切っていたものの、1911年の秋にピカソが新しい愛人エヴァと暮らし始めるまでは続いていた。そして二人が最後に会ったのは、1912年の夏だった」。フェルナンドはピカソとの生活について『ピカソと友人たち (Picasso et ses amis)』(邦訳書『ピカソとその周辺』)、『私的な思い出 (Souvenirs intimes)』という2冊の本を書いている。前者は1933年に出版されたが、後者についてはこれ以上過去の私生活について公表されることを好まなかったピカソが、フェルナンドに仕送りをする条件でこれを差し止め、二人の死後、1988年になってようやく出版された。フェルナンドは『ピカソと友人たち』の冒頭で「洗濯船」でのピカソとの暮らしについて、「ピカソはまだ若かった女友達を覚えているでしょうか。頻繁に彼のためにモデルになったり、当時、靴さえなくて、2か月間も外出できなかった女性のことを。冬に凍てついたアトリエの中で、暖房用の石炭が買えなくて、ベッドに入ったままだった女性のことを覚えているでしょうか。(中略)私の人生の中で、最も大切な時期をピカソと暮らしました。あの時期、私は幸せだったと思います。冬場はアトリエの中はとても寒くて、前の日に飲んだお茶の残りがティーカップの底で凍っていました。でも、ピカソはそんなことにもめげずに、休むことなく制作を続けていました」(森耕治訳)と語っている。
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