ニュートンの錬金術研究と著書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/02 09:01 UTC 版)
「アイザック・ニュートンのオカルト研究」の記事における「ニュートンの錬金術研究と著書」の解説
アイザック・ニュートンのオカルト研究の大部分は、錬金術の研究であった。 ニュートンはあらゆる形の自然科学・物質科学に興味を抱いており、彼のよく知られる科学への貢献はここから生まれた。ニュートンの時代においては化学は生まれたばかりの分野で、したがって実験研究は難解な言葉と曖昧な専門用語からなる、どちらかといえば錬金術やオカルティズムに近かった。ラヴォアジエの先駆的な研究のもと化学量論の実験が行われるようになり、分析化学が用語体系とともに現在知られている近代化学の形を取っていくのは、ニュートンの死後数十年後のことである。 ニュートンの錬金術に関する著書の多くは研究所の火災によって焼失しており、錬金術師としての業績は現在知られているものより大きいとも考えられる。錬金術への転向のため、ニュートンは錬金術を研究している間神経衰弱に罹っていたと考える者もいるが、実際は化学物質(水銀・鉛など)による中毒症状であったとする向きもある。 ニュートンの著書によれば、彼の錬金術師としての主要な目的はまず賢者の石(卑金属を金に変えると信じられていた物質)の発見であり、その次にエリクシルの発見であったと考えられる。 ニュートンの時代、錬金術の実験の一部は禁止されていた。これは悪徳医師が非現実的な実験結果をもとに裕福なパトロンから金をだまし取るのを防ぐため、などの理由があった。イギリス王家も、賢者の石が発見された場合に起こりうる金の価値の暴落を恐れており、錬金術への罰則は厳しかった。不許可の錬金術研究への罰としては、装飾された絞首台での絞首刑などが執行された。こうした事情のため、また科学者仲間への情報漏洩を恐れてニュートンは錬金術に関する著書をあえて出版しなかった。またニュートンは、ロバート・フックの例もあるように批判に敏感であり、また1693年以前微分積分学の体系的な情報を出し渋ったことでも有名である。ニュートンは生来の完全主義者で、未完成に見える資料を出版することを拒んだ。その証拠に、ニュートンは1666年に微分積分を着想して以来、1704年に発表するまで本人の弁で38年もの間を開けており、忌まわしいニュートン・ライプニッツ論争 (en:Newton v. Leibniz calculus controversy) の原因ともなった。 1936年、ニュートンの未発表の著作が9代目ポーツマス卿のジェラルド・ワロップ(ニュートンの大叔母から文書を受け継いだ)の代理としてサザビーズの競売にかけられた。この文書は「ポーツマス文書」(Portsmouth Papers) として知られ、329冊のニュートンの草稿からなり、通常は錬金術に分類される内容が三分の一を占めていた。ニュートンの死に際して、これらの資料は「公表されるべきではない」と考えられ、1936年のセンセーショナルな再登場まで死蔵されていたのである。 このオークションで、これらの文書の多くが経済学者のケインズによって落札された。彼は生涯を通じてニュートンの錬金術書を収集していた。ケインズのコレクションの多くは、後に奇書収集家のアブラハム・ヤフダの手に渡った。彼自身もニュートン草稿の熱心なコレクターであった。 ケインズとヤフダが集めた文書の多くは、現在エルサレムのイスラエル国立図書館に所蔵されている。近年、ニュートンの錬金術に関する断片的な著作を収集・整理・複写してオンラインで自由に閲覧できるようにするプロジェクトがいくつか開始された。主要なものに、アメリカ国立科学協会の支援を受けたアイザック・ニュートン化学プロジェクト (The Chymistry of Isaac Newton Project)、イギリス芸術人文科学研究会議の支援を受けたニュートン・プロジェクト (The Newton Project)がある。さらに、イスラエル国立図書館はニュートン文書の高精細スキャン画像を多数公開している。
※この「ニュートンの錬金術研究と著書」の解説は、「アイザック・ニュートンのオカルト研究」の解説の一部です。
「ニュートンの錬金術研究と著書」を含む「アイザック・ニュートンのオカルト研究」の記事については、「アイザック・ニュートンのオカルト研究」の概要を参照ください。
- ニュートンの錬金術研究と著書のページへのリンク