ニュートンの運動とデカルトの運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 06:26 UTC 版)
「物理学の歴史」の記事における「ニュートンの運動とデカルトの運動」の解説
17世紀末から18世紀初頭にかけて、デカルト力学の伝統はケンブリッジ大学の数学者アイザック・ニュートンの確立した哲学に脅かされていた。デカルト力学では、全ての運動は微粒子による即時の力に帰着して説明されなければならなかったのに対し、ニュートンは宇宙の全ての運動を一連の基本的な数学的原理で説明する方法を選んだ。彼は1687年に出版した『自然哲学の数学的諸原理』の中で、この基本原理を運動の3法則と万有引力として紹介した。これらの原理を用いてニュートンは、例えばヨハネス・ケプラーが、惑星はもともと楕円運動する性質を備えていると考えたように、物体はその形状によって定められた経路を通って運動するという考えを否定し、通常観測される経路だけではなく、あらゆる物体の将来全ての運動をも、現在の運動と質量、それらに働く力に基づいて推定することができると証明した。しかし、観測される惑星の運動は完全に正確にはニュートンの計算と合わず、神学にも没頭していたニュートンは、太陽系が安定に継続するために神が介入していると想像した。 ニュートンの原理は、哲学的には受け入れられない運動や重力への形而上学的な説明の欠如を指摘した大陸の哲学者との間での論争を引き起こした。1700年頃に始まった大陸とイギリスの哲学者の間の亀裂は過熱し、ニュートンとライプニッツの支持者の間で、それぞれが独立に考案していた微積分学の分析技術の優先権に関して、個人的なひどい口論が起こったりもした。当初はデカルトやライプニッツの大陸派がイギリスを除いて支配的だったが、ニュートン自身は個人的に重力についての哲学的理解の不足について不安に思っていたものの、著書の中では、この現実を推論するのに何も必要ではないと主張していた。18世紀に入ると、大陸の自然哲学者も徐々に、数学的に記述された運動について形而上学的な説明なしで済ますというニュートンの方針を受け入れ始めた。
※この「ニュートンの運動とデカルトの運動」の解説は、「物理学の歴史」の解説の一部です。
「ニュートンの運動とデカルトの運動」を含む「物理学の歴史」の記事については、「物理学の歴史」の概要を参照ください。
- ニュートンの運動とデカルトの運動のページへのリンク