ニューグランド時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:24 UTC 版)
「サリー・ワイル」の記事における「ニューグランド時代」の解説
ワイルは1927年10月29日、ニューグランドの開業一ヵ月ほど前に横浜港より入国し、調理場の中だけでなくホテルの施設の面からも影響を及ぼしている。それ以前の日本のホテルのレストランはヨーロッパの貴族文化に倣ったテーブルマナーやドレスコードに厳しく大仰なもので、気軽に楽しむといったものではなかった。提供される料理もコースとして予め定められたものが提供されるばかりであったことから、ダイニングと別にコートを身に着けたまま、あるいはネクタイを着用することなく、お酒を楽しみながら食事をとれるようなグリルを設置し、一品料理から注文を受けた。「どんなにいい料理を作っても、サービスの態度一つで美味しくも不味くもなる」と考え、時にはコックコートのまま自ら客席に赴き、接客し、注文や客の要望を受けるなど、ゲストが楽しめる空間を演出した。今日ではよく見られる、ローストビーフをシェフが客席を回って手切りしてサーブするスタイルは、ワイルが初めて行った。当時のグリルのメニューには「料理長はメニュー以外のどんな料理の注文にも応じます」と書かれていたとされ、ある来客が「体調が優れないからのど越しの良いもの」をリクエストしたところ、ワイルが即興で創作したものがベースとなってドリアが誕生した。ワイルが作った当時のドリアは今日でもニューグランドの名物料理となっている。 さらにワイルは、自分の技術を秘匿し、一つのセクションだけでチーフとなっていく日本の厨房のしきたりを廃し、全ての調理技術を公開し、一人のコックが全てのセクションを覚えるローテーション制を導入したために、多くの優れたコックが育った。また、当時の日本で西洋料理を理解するには料理の原書を読む必要があり、それには語学が大切だと言い、コック達に語学学校に通うことを奨励したので、ニューグランドでは見習いコックであっても語学学校に通う日は厨房の仕込みや掃除も免除された。これは、丁稚奉公的なしきたりの強い当時のレストランの厨房では考えられないほど革新的なことだった。(ワイル自身は、ドイツ語、フランス語を得意とし、英語と日本語も多少話すことができた) ニューグランドでは、メイン・ダイニングの他にグリルルームと二つのレストランがあり、東京にもニューグランドの支店を出していたため、ワイルは各店舗を回ってはメニューを指示し、味の確認をしては客席に顔を出すなど非常に多忙だったという。そのため、メイン・ダイニングは内海藤太郎や荒田勇作、グリルは山本政孝、東京ニューグランドにはワイルと同じくスイスから来日していたアーンスト・ローエンベルゲルや戸村誠蔵などそれぞれの部署に料理長を置き、メニューはワイルが書くものの、厨房の調理作業は彼らに委ねられていた。 当時のワイルの料理を味わった著名人には、1929年5月2日に来日したイギリス国王ジョージ五世の第三王子、グロスター公ヘンリー王子、1931年1月に来日したアメリカ人俳優ダグラス・フェアバンクス、1932年5月に来日したチャールズ・チャップリン、1934年日米親善試合で来日したベーブ・ルースなどが挙げられる。また、大佛次郎は1931年から約10年に渡ってホテルニューグランドの318号室を定宿として執筆活動を行っていた。 ニューグランドはこの他にも1929年7月に軽井沢、雲場池の畔に軽井沢ニューグランドロッヂ、同年11月に山中湖畔に富士ニューグランドと富士ニューグランドロッヂを開業、ワイルはこれらのレストランの総責任者となった。当時のワイルの月給は弟子たちが25円、一般の大卒会社員が50円程度であった時代に700円。その資金を利用してニューグランド裏手にあったセンターホテルを買収し、一時期はオーナーシェフとしても活躍したが、大陸での日本を取り巻く情勢悪化や、日独伊防共協定が締結されるなど世界情勢は暗雲立ち込めるものとなり、2年後には経営から撤退を余儀なくされている。
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