ニューコメンの死とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 23:52 UTC 版)
「トーマス・ニューコメン」の記事における「ニューコメンの死とその後」の解説
ニューコメン自身による機関建造は、1720年のホイール・フォーチュンの機関が最後となった。ニューコメンは、ビジネスでロンドンに滞在する日が多くなっていたが、ロンドンでのパートナーで友人のエドワード・ウォリンの家で2週間病床に伏し、1729年8月5日に死去した。熱病であったとされている。彼は非国教徒が埋葬されているロンドン、シティー・ロードのバンヒル (Bunhill) 墓地に、8月8日に埋葬された。そこは協同の地下納骨所であり、墓の正確な位置は不明である。 セイヴァリの特許のもとで、特許期限の1733年までに少なくとも104台のニューコメン機関が建造された。大部分はイングランド、スコットランド、ウェールズの鉱山であったが、1721年から1732年の間に少なくとも12台が、ヨーロッパ大陸のハンガリー(3台)、フランス(3台)、ベルギー(2台)、ドイツ(1台)、オーストリア(1台)、スペイン(1台)、スウェーデン(1台)で建造された。 ニューコメン機関は、およそ75年の間、大きな変更なくその位置を占め続けた。当初は真鍮鋳物のシリンダが使われたが、やがて安価な鋳鉄に変わり、より大口径となった。また並行してボイラの改良も行われた。これらの機関の建造には、ニューコメン、コウリー父子の他に、ポッター一族(Isaac, Humphrey Potter 他)、ストウニア・パロット(Stonier Parrott)、ジョージ・スパロウ(George Sparrow)、バイトン、スミートン、ホーンブロアー一族、ジェームズ・ブリンドリ(英語版)(1716年 - 1772年)、モルテン・トリヴァルド(Mårten Triewald; 1691年 - 1747年)など、多くの人々が関わった。ニューコメンの甥のイライアス(Elias Newcomen)も機関建造者に加わった。 1769年にワットが分離凝縮器の特許を取得し、ニューコメン機関の大きな改良を行った。その後、1776年から燃料消費の少ないワット機関の建造を始めると、石炭を外部に頼っていたコーンウォールの錫鉱山から、徐々にワット機関に置き換わっていった。 ワットの改良にもかかわらず、ニューコメン機関はワット機関より安価で、さほど複雑ではなかったので、ワットの特許期間内の1770年から1800年の間にもワット機関より多くのニューコメン機関が建造された。18世紀の間にイギリスおよびヨーロッパの各地で建造されたニューコメン機関は、1500から2000台にのぼった。イギリスで最後まで動いていたニューコメン機関は、1795年にサウス・ヨークシャー州のエルセカー新炭鉱 (Elsecar New Colliery) に建造されたもので、1923 年まで継続して運転され、1950年代でも運転可能な状態であった。 1920年にロンドンに設立された科学史の学会は、ニューコメンの名にちなんで、ニューコメン協会 (Newcomen Society) という名前になった。ニューコメン協会は 1922 年より機関誌 Transactions of the Newcomen Society を発行し、その後アメリカなどにも支部(合衆国ニューコメン協会)が設立された。
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