海外留学の橋渡し ~スイス・パパとして~
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:24 UTC 版)
「サリー・ワイル」の記事における「海外留学の橋渡し ~スイス・パパとして~」の解説
これら弟子達やホテルの寄付による日本各地での歓迎ぶりに感激したワイルは、終戦後、日本人が敗戦国民として個人的な海外渡航が厳しく制限されていた時代、自らが窓口となって日本人コックの西欧留学の道を作ることで日本の西洋料理界の発展に寄与していく事となる。日本側では、ニューグランド時代にワイルの補佐を務めた副料理長の荒田勇作が窓口となり、国際調理技術協会を結成してワイルのもとに日本人コックを送り出し、ワイルがヨーロッパでの受け入れレストランを用意することで、日本人コックの海外修行が実現した。ここでのワイルの最大の功績は、受け入れ先のレストランに研修生(スタジエール)ではなく、給与の出る料理人として雇う了承を取り付けたことにある。住み込みで月給350スイスフラン、日本円にして35,000円という好待遇ばかりでなく、研修生という形ではなく正式な従業員として働いていた実績が作れ、健康保険証や労働証明書(セルティフィカ)を得て、他の調理師などと同様に欧州各地のレストランへと転籍することも可能になった。 ここから何人もの日本人コックが渡欧することになるが、修行先のホテル・レストランにおいて、ワイルが紹介した日本人コック達の評判が良かったため、ワイルの仲介で、国際調理技術協会はヨーロッパ十六カ国司厨士連盟への加入が認められ、これ以降、日本人コックの西欧修行が容易になり、「スイス司厨士派遣団」としてスイスホテル協会を受け入れ先に、多くのコックが渡欧した。そこでワイルは、到着した日本の若い料理人のヨーロッパ留学の世話をし、「スイス・パパ」として慕われた。こうして海外修行を終えたコック達が1970年代に帰国して、日本にフレンチブームを巻き起こすことになる。このルートで渡欧した代表的なシェフとしては、加藤信(帝国ホテル製菓部長)、井上旭(『シェ・イノ』)、今井克宏(『三鞍の山荘』)、大庭巌(ホテルオークラ料理長)、東敬司(『シェ・アズマ』)など、いずれも現在のフランス料理界を代表するシェフである。
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