ニミッツの評と危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 10:18 UTC 版)
「コロンバンガラ島沖海戦」の記事における「ニミッツの評と危機」の解説
太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は後年、クラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦におけるエインズワース少将の戦いぶりについて、以下のように評した。 エーンスワース提督は、二回の海戦において、適当な夜間隊形で接敵した。単縦陣の巡洋艦部隊を中央に、その前後に、それぞれ駆逐艦を配備していた。二回とも、エーンスワースの巡洋艦は日本艦隊に近迫し、五分間ほど、急射撃を浴びせ、次いで日本の魚雷を回避するため針路を反転した。これは、理論としては適当であったが、実施の面では二つの欠陥があった。第一に、レーダー手が、効果的な射撃の配分を示す代わりに、一番大きな艦または最も近い目標だけを選んだので、連合軍部隊は双方の海戦で兵力の点でははるかに優勢であったにもかかわらず、各回ともわずかに一隻 ―最初は駆逐艦、二回目は軽巡洋艦― を撃沈したにすぎなかった。第二に、エーンスワースが自分の肉眼で容易に目標を視認できるほど、日本艦隊に近寄りすぎ、しかも射撃開始の時機を失したため、日本軍は慎重に狙いを定め、魚雷を発射することができた。日本の魚雷は彼が針路を反転しているときに列線に到達した。したがって、各海戦において、彼の巡洋艦には転舵中に魚雷が命中し、米軽巡ヘレナは最初の夜戦で、ニュージーランド巡洋艦リアンダーは二回目の夜戦で、ともに行動不能になったのである。 — C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』170、171ページ ただし、レーダーにより日本艦隊を発見した後、指揮下の艦艇に攻撃命令を出すまで18分の時間を要し、その間日本艦隊に発見と反撃の機会を与えたクラ湾夜戦においてはニミッツ提督の指摘通りエインズワース少将の指揮の遅さはあったが、この夜戦では逆探によってアメリカ軍のレーダー射撃の危機を察知した日本艦隊が米艦隊を上回る速度で前進したため、アメリカ軍のレーダー探知の僅か4分後に互いを目視で確認できる距離まで急接近した点は状況が異なる。またニミッツ元帥は、エインズワース少将が日本の駆逐艦に魚雷次発装填装置があることを知らず、無警戒だった点を指摘している。巡洋艦を中央に置き、前後に駆逐艦を配置する陣形は1942年10月11日のサボ島沖海戦以来常用していたものである。しかし、大乱戦となった1942年11月13日の第三次ソロモン海戦(巡洋艦の夜戦)はさておいて、コロンバンガラ島沖海戦で神通への止めを刺すための突撃をするまで、駆逐艦は海戦においてあまり活躍していなかった。この点を踏まえ、ニミッツ元帥は評を以下のように締めくくっている。 要するに、アメリカ側は、この海戦において、戦術の面では、前年にくらべて大きな進歩を示したが、戦闘能力と敵戦闘力に対する認識の点では、依然として欠けるところがあった。 — C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』171ページ いずれにせよ、第36.1任務群は中枢の巡洋艦が沈むか損傷などにより事実上戦力外となった。ソロモン方面のもう一つの有力なアメリカ海軍の水上部隊である第36.9任務群(アーロン・S・メリル少将)は、7月12日未明にムンダを砲撃し、7月15日に「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡を行動しているものの日本艦隊と会敵する事はなく、ツラギ島を経て7月の中旬から下旬にかけてはエスピリトゥサント近海で行動していた。 前述のとおり、7月20日の戦闘以降、日本艦隊はコロンバンガラ島への輸送の際はブラケット水道を経由することとなった。連合国軍はこの海域に魚雷艇を配備して妨害行動に出たものの、大発1隻を撃沈したのみで駆逐艦の「東京急行」には通用せず、効果がある妨害とはならなかった。連合国軍の敗北により第36.1任務群の兵力減少と第36.9任務群の遠方での行動は、連合国軍による当面の妨害手段は魚雷艇と駆逐艦、航空機のみとなっていた。
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