デモの拡大
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「2013年トルコ反政府運動」の記事における「デモの拡大」の解説
2013年5月27日に計画反対を訴えるデモが始まり、やがて参加者は数千人規模に膨れ上がる。これを解散させるため5月31日には機動隊が催涙ガスや放水砲をデモ隊に対して使用し、数十人が重軽傷を負い、60人あまりが身柄を拘束された。6月1日には首相官邸を目指した約1000人のデモ隊に対し機動隊が催涙ガスなどを発射した。こうした事態を受け、5月31日、裁判所は建設計画の一時停止を命じた。 反対デモは保守的、権威主義的傾向を強めるエルドアン政権に反発する世俗主義勢力、左翼勢力が中核を担っているとされ、このほかにも環境主義者や国家主義者、クルド人勢力など幅広い政治勢力が参加した。6月2日までにトルコの67都市で235ものデモが実施されるなど、瞬く間にトルコ全土に反政府運動として広まった。6月1日夜に機動隊が装甲車を撤収させたことでいったんは落ち着いたものの、6月2日にはデモ隊にタクシーが突っ込み男性が死亡し、初の死者が出る。公正発展党の事務所も襲撃を受け、6月3日にはアンタキヤにて22歳の男性が発砲を受け死亡。6月4日には革新派に属する公務員労働組合連合(KESK)が2日間のストライキ突入を表明した。
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デモの拡大
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趙紫陽は4月30日に北朝鮮から帰国し、翌5月1日の常務委員会で秩序の回復と政治改革のどちらを優先させるかで李鵬首相と対立したが、5月4日の五・四運動70周年記念日までにデモを素早く抑えることで一致した。 五・四運動の70周年記念日である前日5月3日に開かれた式典では、北京の学生・市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、午後からはアジア開発銀行理事総会でも同様に肯定的な発言をした。学生運動終息に期待が持たれ、党内部の評価はまずまずだった。 鄧小平や保守派の長老も歩み寄りを見せたが、5月13日から始まったハンガーストライキが「四・二六社説」から柔軟路線への転換を破綻させた。ゴルバチョフ訪中前に活動を収束させることで鄧、楊尚昆(国家主席)、趙の3人は一致したが、袁木(国務院報道官)ら保守派が送り込んだ政府側代表の尊大な態度に学生側の態度は硬化し、さらに学生側も「四・二六社説」の撤回に固執したためハンガーストライキの終結は困難となった。 この頃全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安(警察)による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場へと変貌していった。併せてイギリスの植民地であった香港、日本やアメリカ合衆国などの諸外国に留学した学生による国外での支援活動も活発化していった。 この民主化運動の指導者は、漢民族出身の大学生である王丹や柴玲、ウイグル族出身のウーアルカイシ(吾爾開希)などで、5月18日午前に李鵬、李鉄映、閻明復、陳希同らが彼らと会見した。まず李鵬が「会見の目的はハンストを終わらせる方法を考えることだ」と発言すると、ウーアルカイシは「実質的な話し合いをしたい。我々は李鵬を招待したのであって、議題は我々が決める」と反論した。 学生側は「学生運動を愛国的なものとすること」と、「学生と指導者の対話を生放送で放送すること」を要求したが、李鵬は「この場で答えることは適当ではないし、2つの条件はハンスト終結と関連付けるべきではない」と話し、会見は物別れに終わった。李鵬を激しく非難する姿が全世界にテレビにより流されたことで注目を集めることとなった。
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