テレビ出演拒否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:11 UTC 版)
1972年「旅の宿」のリリース中に「テレビ出演拒否」を行う。理由は、テレビを最大限利用した藤圭子のような既成のプロ歌手とは逆の「テレビを拒否したところにいるプロ歌手でいよう!」と考えた意地だったと述べている。「テレビ出演拒否」は、拓郎を神格化させた大きな要素となるという見方もある。紅白歌合戦の出演について、NHKは1972年にアプローチしたが出演を拒否した。この年、若者に人気の拓郎に距離を置いていたNHKもにわかに注目。NHK芸能局歌謡曲担当の藤村主管は、1972年4月から「NHKの歌番組に出て頂きたい、『ステージ101』に出演して欲しい」と拓郎を口説いたが、「ついては局の内規でオーディションを受けて頂きたい」と頼んだため、以前藤山一郎に落とされている拓郎に「今更受け直すつもりはない」と蹴られた。藤村はこの年、10月31日に神田共立講堂であった拓郎のリサイタルに足を運び、ますます拓郎に惚れ込み、11月6日に拓郎の歌の入ったテープの提出をもってオーディション合格の形を整えた。折柄、紅白歌合戦のメンバー決定時期となって、拓郎に紅白出場を要請したが「"紅白"はお祭りだ、と考えようとしても無理がある。あの顔ぶれには年功序列的なものを感じるし、一種の同窓会じゃないのか。だったらぼくは同窓生じゃないから行く必要がない」などと吹き、出演を拒否した。以降、ニューミュージック系の歌は紅白では聴くことができないという常識が定着した。藤村は粘りに粘り、紅白から『歌謡グランドショー』に切り替え、「企画コーナーとして5曲歌って欲しい」と提案。拓郎は「5曲なら悪くない」と出演を承諾し、1972年12月12日放送の『歌謡グランドショー』でNHK初出演した。1曲のみ拓郎の独演、4曲は井上堯之グループ(原文ママ)をバックに歌った。番組視聴率は通常の1・5倍になった。藤村は「彼は現代の英雄、フィーリングだけじゃなく、歌に対する姿勢、考え方が実にしっかりしている。歌謡曲歌手とはちょっと違いますね」などと唸った。 『ゴールデン歌謡速報』(フジテレビ)出演時「1曲では僕が分ってもらえない」とし、3曲歌うことを条件に出演した。 歌番組への出演を拒否した拓郎のために、テレビサイドは異例のコンサート中継をオンエアした。 女性誌から週刊誌、月刊誌、ゴシップ誌、新聞と取材申し込みが殺到したが、「自分のいいたいことが正確に伝わらない」とマスコミ取材拒否も行った。 「テレビ出演拒否」「マスコミ取材拒否」「人気絶頂期の結婚」など、拓郎はそれまでのタブーを破り、フォークにポリシーを持たせることで、歌謡曲とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた。 拓郎のテレビ出演拒否を受け、フォークシンガーの多くが同様にテレビ出演を拒否した。これは各所属事務所、あるいはレコード会社の戦略によるものであった。 拓郎のテレビ出演拒否は後のテレビ界に大きな影響を与えた。1978年から始まった『ザ・ベストテン』は、テレビに出ないニューミュージック系歌手の曲を紹介したいというコンセプトで始まった番組であったが、『ザ・ベストテン』はこれを逆手に舞台裏の事情を逐一報道、芸能ニュース番組化することで話題を呼んだ。 相澤秀禎は「テレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と述べている。 1986年に『メリー・クリスマス・ショー』への出演オファーがなされたが、拓郎は「司会だったらやってやるよ」の一点張りだったため実現しなかった。桑田佳祐は拓郎に歌での出演を希望していた。 1996年から音楽バラエティー番組『LOVE LOVEあいしてる』にレギュラー出演し、ジャニーズ事務所のアイドル・KinKi Kidsと共に司会を担当したことで、他のミュージシャンの歯止めが取れたという側面もあった。「出てもいい」と思った大きな理由は、かつては多かった横暴な芸能ディレクターは減り、ミュージシャンに対して理解のあるディレクターが増えたという「テレビの現場の変化」を挙げている。
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