ダメージへの懸念をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 05:10 UTC 版)
「荒川仁人 対 オマール・フィゲロア戦」の記事における「ダメージへの懸念をめぐって」の解説
この試合は、アルツロ・ガッティ対ミッキー・ウォード戦の他、ディエゴ・コラレス対ホセ・ルイス・カスティージョ戦やイスラエル・バスケス対ラファエル・マルケス戦とも比較された。上述のドノバンは「人間が耐えられる痛みの範囲を超えた試合」と書いている。また、同じくBWAAメンバーのデイビッド・P・グライスマンは次のような記事を書き上げている(要約): クイーンズベリー・ルールは、ボクシングの魅力的な要素は排除せずに、安全化を図りながら改正を重ねてきた。しかし、競技がいかに安全なものであっても、ボクサーはリングに上がる時、自分たちの命が懸かっていることを認識している。ディエゴ・コラレスやアルツロ・ガッティといった伝説的なファイターは極限の打撃戦を厭わず、それゆえに称賛を浴びたが、ボクサーが危機に瀕することへの懸念は常にある。荒川は時折鮮やかなパンチを当てながら攻撃を続け、フィゲロアは耐え続けたが、第三者的には、荒川がどこまで持ちこたえるか、あるいはこのような試合は自分たちが観たいものなのか、確信が持てなくなる場面もあった。荒川はユナニマス・ディシジョンで敗れ、尊敬を勝ち取り、ボクサーに期待される「何があっても戦う意志」の象徴であった。ボクサーは観客を楽しませることと同時に勝利を期待されている。常にディフェンスを心がけなければならない一方で、あまりにディフェンスばかりにとらわれればバッシングを受ける。傷を負いながら戦えば崇拝されるが、ボクサーは長年にわたるスパーリングや試合の影響とともに生きていかなければならない。熟練したボクサーが賛美される一方で、年間最高試合は最も面白い試合に贈られる。試合後、病院で荒川とフィゲロアが傷だらけの顔で一緒にポーズをとる写真は、アルツロ・ガッティとミッキー・ウォードの似たような場面を彷彿させた。打撃戦でボクサーが被弾を重ねることに気をもむ者がいる一方で、そのボクサーがパンチを受けながらもまだ反撃できることに感激する者もいる。これらのゆえに、ボクシングから得られる喜びは、何よりも気がとがめるような感覚を伴う性質のものである。 この他、ダメージを懸念した現地のボクシング記者は次のようなレポートを書いている。 試合直後には記事を書けない類の試合だった。試合は残酷で、次第に観るのが不快になり、恐ろしささえ感じさせるものだった。Twitterや他のウェブサイトでは、メディアのメンバーだけでなく選手たちまでが試合を止めてほしいと願うほどであった。しかし荒川はリング上で手を出し続け、レフェリーも技術的な問題以外で試合を止めることは困難な状況であった。何より荒川自身が大胆不敵なプライドと決意をもって戦っていた。この試合を観ずに年間最高試合を決める議論はできない。両者に脱帽である。 試合は途中から不快な様相を呈し始めた。荒川は被弾を重ね、ポイントをとれず、試合後半には、試合を止めてくれという嘆願の声が強まっていった。ただ、荒川の健康が無事だとわかった今ならば、試合を素晴らしいものにしたひとつの要素、つまり荒川の限界を超えた勇気に感謝することができる。フィゲロアもライト級で本物の選手であることを証明する好パフォーマンスを示したが、荒川の勇気の前に霞んでしまった。 この試合におけるこれらの懸念に対し、IBRO(国際脳研究機構(英語版))メンバーのケルシー・マッカーソンは、次のような見解を述べている: 公式採点ではポイントがつかなかったが、荒川は最後まで何度もフィゲロアにダメージを与えていた。両者はかみ合い、いずれにも勝機があった。試合を止めなかったレフェリーの判断は正しい。荒川は傷つき出血してはいたが、ラウンド終了のゴングの後で、戻るべき自分のコーナーを見失うようなことは一度もなく、他の選手と較べて特別危険な状態にあったわけでもない。それでも、ただ根性や流血を見ることに耐えられないからという理由で、ボクサーやセコンドやレフェリーやリングドクターに指図する権限があるかのように振る舞う人々は、恐らくボクシング観戦には向いていないだろう。
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