ダコタ族のミネソタ大暴動(1862年)
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「スー族」の記事における「ダコタ族のミネソタ大暴動(1862年)」の解説
1851年、サンテ・スー族(ダコタ族)は96,000㎢の部族の狩猟地を、166万5000ドルの一時金と、その後の年金の支払いを代替条件に、連邦政府にしぶしぶ明け渡した。その後11年、白人居留地監督官らの兵糧攻め的なサボタージュで年金(牛など食料物資)の支給は滞り、種牛まで食いつぶすに至り、部族の飢餓は常態化していった。ダコタ族は食料の円滑配給をBIA(インディアン管理局)から派遣された「居留地代理人」に強く求めたが、連邦政府は南北戦争にかまけてそれどころではなかった。ダコタ族の訴えは放置された。 1862年、前年の不作と冬の飢餓のすぐ後の夏、飢餓状態のサンテ・スーに対し、地元の白人商人たちは彼らにそれ以上の貸し付けをするつもりはないと告げた。白人の商人のアンドリュー・ミリックは「インディアンどもが飢えてるんなら、草でも喰わせてればいいんだ」と放言し、スー族の恨みを買った。 1862年8月17日、4人のスー族が狩猟の帰りにロビンソン・ジョーンズという白人の農場のそばに立ち寄り、一人の戦士がここの鶏を獲ろうとして諍いとなった。「鶏を盗まない方がいい」とたしなめた戦士は「臆病者」と罵られ、これに反発して「俺は白人なんか怖くないぞ、見てろ、白人を一人殺してやるからな」と言い捨てて、行きがかりでジョーンズ一家と近隣の白人を殺した。 サンテ・スー族は徹夜で交戦か和平か、善後策を話し合った(スー族は合議によってすべての方針を決める)。タオヤテ・ドゥタ(またはリトル・クロウ)酋長は、交戦に反対し、「ひとり、ふたり、10人白人を殺せば、やがて10の10倍の白人がわれわれを殺しにやってくる」と警告した。しかし、サンテ・スーの11年間の恨みは積りに積ったものとなっていて、もう交戦論を抑えることはできなかった。リトル・クロウらはレッドウッド滝のそばのアメリカ連邦政府の出先機関に攻撃をかけた。 こうしてサンテ・スーは一斉蜂起し、ミネソタ川沿いの白人の入植地に向けて攻撃を仕掛け、白人がダコタ戦争と呼ぶ大暴動が始まった。スー族は、彼らと友好的な白人の農場は襲わず、殺さなかった。しかしその外の入植白人たちは、徹底的に殺戮された。前出のアンドリュー・ミリックは、「口に草をいっぱいに詰め込まれた」姿で殺されていた。 このスー族の暴動はヘンリー・ホプキンス・シブレー大佐が急遽民兵を募って組織した軍勢によって、4週間後に制圧された。2000人の子供も含めた老若男女のダコタ族が白人によって捕虜にされた。 1862年11月5日のミネソタの軍事法廷で、392名のダコタ・スー族が、数百名の白人農家を焼き、殺害した咎で有罪を宣告され、307人が絞首刑の判決を下された。被告側弁護士や傍聴人は許されず、5分未満の裁判で多くが断罪された。シブレーは全員の即時処刑を主張し、ビショップ・B・ヘンリー・ウィップル主教と対立した。エイブラハム・リンカーン大統領は284名の戦士の死刑宣告状を返送し、強姦や殺人の疑いのある38名のダコタの男性の絞首刑の実行のみ署名した。 1862年12月26日、ミネソタ州マンケイトのスネリング砦において、特別誂えの絞首台の上で、38人のダコタ族インディアンの同時執行が行われた。この一斉執行数は、アメリカの刑史で未だに破られていない。メディシン・ボトルとシャコビーのニ酋長はカナダへ逃げたが、国境を越えたアメリカ陸軍によって捕縛され、麻酔薬を飲まされ、犬ぞりに乗せられてミネソタへ運ばれた。シャコビーは処刑台に上る際に汽車の汽笛を聞き、「白人がやってくるにつれ、インディアンはいなくなっていく」と言葉を残した。リトル・クロウ酋長は北ダコタへ逃げた一人だったが、翌年の夏にミネソタで野生イチゴを摘んでいるところを待ち伏せしていた白人農夫に射殺された。 リンカーン大統領は、その後4年間、サンテ・スー族への年金の支給を中断して、代わりに白人の遺族にそれを与えた。もともと居留地への年金支給はまともに行われず、これが暴動の原因となったことにリンカーンは注意を払うことはなかった。こうして、アメリカ政府の居留地への無関心によって、ダコタ族はさらに飢えに苦しむこととなった。 また、暴動に加わらなかった、1700人の無関係なスー族も捕虜にされ、翌年には、さらに西方の居留地へ強制移動させられた。
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